陸酔い人魚の青藻湯

 海辺の温泉宿《波間庵》には、海から直接上がれる青い石段がある。

 その朝、主人のサヴィナが見つけた客は、最上段で動けなくなっていた。人魚の使者ミレイアである。銀色の尾は陸へ上がると二本の脚に変わったが、膝から下が激しく痙攣していた。

「正午までに和平文書を城へ届けなければ、港が封鎖されます。でも陸に上がるたび、脚が波へ戻ろうとして……」

 馬車を呼んでも、城門前は歩かねばならない。ミレイアは濡れた封筒を胸に抱き、立とうとしては崩れた。

 サヴィナは客室ではなく、海へ張り出した丸い湯船へ彼女を抱えていった。温泉は薄青く、細い藻が星のように瞬いている。

「青藻湯は、身体に『今いる場所』を教えます。海を忘れさせる湯ではありません」

「忘れたくは、ありません」

「だから効くんです」

 ミレイアが脚を沈めると、湯の中で足先だけが一度、尾びれへ戻った。青藻が鱗に触れ、淡い光を吸う。次に湯が揺れたとき、尾びれは五本の指を持つ足へほどけていた。

 彼女は浴槽の底を踏んだ。初めは恐る恐る、二度目は強く。

「地面が、押し返してくる」

「陸は波と違って、逃げません」

 十分後、ミレイアは石段を自分で下りた。最初の一段では両腕を広げ、二段目では手すりを離した。海なら流れに任せるところを、陸では自分で体重を次の足へ渡す。その違いを青藻の光が筋肉へ教えている。

 砂浜へ着くと、彼女は貝殻を一つ蹴った。足先は尾びれへ戻らず、貝だけが乾いた音を立てて転がった。

「痛くない。陸を歩く音がする」

 痙攣はない。試しに走っても膝はまっすぐ前を向いた。

 正午の鐘より早く戻ってきた彼女は、頬を紅潮させていた。城まで一度も馬車に乗らず、自分の脚で文書を届けたという。和平成立の青い蝋印をサヴィナへ見せた。そして真珠を一粒、料金皿へ置く。

「海の真珠一つでは高すぎます」

「では、残りは次の入浴料にしてください。使節はこれから何度も陸へ来ます」

 そう言って海へ飛び込む直前、ミレイアは振り返った。

「次は歩いて、正面玄関から来ます」

 水柱が朝日にほどけた。

 サヴィナが真珠を初めての売上箱へ移すと、約束どおり正面の貝鈴が鳴った。