階と階のあいだ
昇降機の点検員には、先輩から口伝えで教わる禁則がある。
停止中のかごの外から三回ノックされても、絶対に返してはいけない。
昇降路の壁の向こうには、何もないからだ。
轟木弦一は、その話を新人の秦野朱里にも教えた。朱里は「業界の怪談ですね」と笑った。
深夜、閉鎖予定の旧庁舎で点検をしていた。
主電源を切り、二人でかごの上に乗る。四階と五階の中間まで手動で動かしたところで、コンクリート壁から音がした。
こん、こん、こん。
朱里は反射的にレンチで三回返した。
「何やってる!」
弦一が叫ぶと、壁の中央に縦の継ぎ目が浮かんだ。そこから生温かい空気と、古い畳の匂いが漏れた。
継ぎ目は、エレベーターの扉のように左右へ開いた。
向こうには幅三十センチほどの廊下があった。
作業服の男、買い物袋を持つ女、学生帽の少年。時代の違う人々が、全員、体を横向きにして隙間へ並んでいる。奥から順に、小声で同じ言葉を回してきた。
「交代を」
白い手が朱里の安全帯をつかんだ。
弦一は必死に引いた。帯は戻ったが、先には誰もいなかった。壁は音もなく閉じ、朱里のレンチだけがかごの上に残った。
会社は事故を隠した。
警察は「屋上からの失踪」と処理した。昇降路の図面に空間はなく、壁を壊しても厚いコンクリートが出るだけだった。
それから弦一がエレベーターに乗るたび、階と階の中間で三回ノックがした。
返事をしなければ、やがて動き出す。
だがノックは日に日に自宅へ近づいた。
勤務先の箱。駅前の箱。自宅マンションの箱。
最後には、階段を使って帰った夜にも聞こえた。
こん、こん、こん。
音は寝室のクローゼットからした。
「秦野か?」
名前を口にしただけなのに、向こうから三回、返事があった。
折れ戸が左右へ滑った。
服の代わりに、あの細い廊下が伸びている。朱里が横向きに立ち、頬を壁へ押しつけていた。痩せ、唇がひび割れている。
「先輩、遅かったですね」
弦一は手を伸ばした。
朱里も手を伸ばす。
指が触れた瞬間、背後で玄関のドアが閉まった。振り向くと、部屋はなく、弦一の背中は冷たい壁に挟まれていた。
目の前では朱里が、弦一の寝室へ足を踏み出している。
彼女はクローゼットを閉める前に、小さく頭を下げた。
「交代を、ありがとうございます」
翌朝から、自宅マンションのエレベーターは、三階と四階の間で一秒だけ止まるようになった。
住民は誰も気にしない。
その一秒だけ、壁の向こうで男が三回、扉を叩いている。