雁に名前を教えない
弟が沼で行方不明になった翌年、雁の群れが村へ戻ってきた。
遺体は見つからなかった。
父は、弟は遠くへ流されたのだろうと言った。祖母だけは、渡り鳥が連れて帰ってくることもある、と話した。
「亡くした人の声で鳴く雁がいても、名前を呼んではいけないよ」
「どうして?」
「鳥は一羽では人に戻れない。家から名前を一つもらって、代わりを連れていくから」
父は迷信だと笑った。
ある夕方、一羽の雁が庭へ降りた。
右の翼が少し曲がっていた。弟も生まれつき右腕をうまく伸ばせなかった。
雁は弟の部屋の窓を、二回、少し間を置いて一回つついた。弟が帰宅したときの合図と同じだった。
「お父さん」
私が呼ぶと、父は泣きながら庭へ飛び出した。
「直央なのか」
弟の名前を口にした瞬間、雁は父の声で答えた。
「ただいま」
父は雁を家へ入れた。
祖母へ電話すると、すぐ追い出せと叫んだ。名前を与えた鳥は、次に連れていく者の名を聞くまで家を出ないという。
父は電話を切った。
雁は弟の席に座り、父の手から米を食べた。
夜になると、弟の声で昔の話を始めた。私しか知らない秘密まで覚えていた。
「本当に直央なんだ」
父は何度も言った。
私は怖くなり、玄関を開けようとした。
鍵は父が隠していた。
雁が首を伸ばし、弟の声で尋ねた。
「姉ちゃんの名前、なんだっけ」
私は答えなかった。
父は長いあいだ私を見ていた。
弟が消えてから、父は一度も私の誕生日を祝わなかった。食卓には弟の椅子だけを残し、私が進学の話をしても聞かなかった。
雁がもう一度尋ねた。
「姉ちゃんの名前は?」
父はゆっくり、私の名前を教えた。
その瞬間、喉から声が消えた。
腕が軽くなり、指の間に薄い膜が広がった。父は私を見ず、弟の姿へ変わっていく雁を抱き締めていた。
夜明け前、私は窓から群れへ飛び立った。
下を見ると、父と弟が庭で手を振っている。
父は村人へ、娘は都会へ出ていったと説明していた。
雁の群れは一羽増えていた。
父の家族は一人減っていなかった。