雨の日の透明カバー
丹生谷由良が借りた美術全集は、辞書より重かった。
隣の席の千草が、文化祭ポスターの参考にと貸してくれた。海外の海を描いた絵ばかりを集めた本で、表紙には青い波が盛り上がっている。
「絶版だから、濡らさないで」
千草は冗談を言わない。由良は両手で受け取り、「鞄の底にも置かない」と約束した。
その日の放課後、空は晴れていた。
校門を出た瞬間に雨が来た。
傘を持たない生徒が一斉に戻り、昇降口が詰まった。由良は本を制服の中へ入れて走ったが、渡り廊下を抜けるまでに背中まで濡れた。
教室へ戻って確認すると、頁の端が波打っていた。
表紙の海より、ずっと現実的な波だった。
由良は青ざめた。
窓を閉め、扇風機を三台集め、濡れた頁の間へコピー用紙を挟んだ。上から国語辞典を五冊載せる。司書室で聞いた乾かし方を、半分しか覚えていなかった。
「何してるの」
振り返ると、千草がいた。
由良は本の前へ立ったが、隠せる大きさではない。
「ごめん」
千草は黙って本を開いた。頁を一枚ずつめくるたび、細かな皺が光を曲げる。
「弁償する。見つからなくても、古本屋を全部――」
「この頁」
千草が指したのは、灰色の海の絵だった。
濡れた紙の凹凸のせいで、雲の下に細かな波が増えている。
「前より嵐っぽい」
「怒ってないの?」
「怒ってる」
「だよね」
「一人で直そうとしたことに」
千草は鞄から透明なブックカバーを出した。本を貸したあと、やはり心配になって買ったのだという。
二人でコピー用紙を交換し、頁を押さえ、放課後の教室で雨が弱まるのを待った。
完全には戻らなかった。翌日、乾いた本の端には薄い波が残った。
由良がもう一度謝ると、千草は透明カバーをかけながら言った。
「次に貸す本は、最初からこれをつける」
「次も貸してくれるの?」
「濡れたら、一緒に直す条件で」
文化祭のポスターには、穏やかな海ではなく、風に崩れる青い波を描いた。
その波の形は、借りた本に残った皺を、二人で指先になぞった夜の形だった。