雨粒が乾くまで
小田巻真名は、娘に「二度と帰ってこなくていい」と言った翌日、同じ言葉を一日中後悔していた。
娘は春から海外の大学へ行く。出発前夜になって、留学費用のことで言い争いになった。真名は一人で育てた苦労を並べ、娘は「頼んで産んでもらったわけじゃない」と返した。
朝、娘は鍵を置いて出ていった。
夕方、雨がやんだ。玄関前の水たまりに、昨日の空が映っていた。まだ降り始める前の、薄い灰色の空だった。
真名が足を入れると、靴底の下で時間がほどけた。
玄関を開ける。台所では、昨日の娘がスーツケースに充電器を詰めている。時計は午後八時十二分。言い争いが始まる三分前だった。
外の水たまりが乾くまでしか、ここにはいられない。それだけは、濡れた靴から伝わってきた。
「お金の話なんだけど」
娘が言った。
真名の胸に、昨日と同じ答えが込み上げた。誰がここまで育てたと思ってるの。奨学金で足りないなら諦めなさい。
代わりに真名は、冷蔵庫を開けた。
「プリン、食べる?」
「今その話?」
「今じゃないと、食べる時間ないでしょ」
娘は呆れた顔で椅子に座った。
二人で蓋をめくった。真名は、十五年前の保育園代のことも、熱を出した夜のことも言わなかった。言えば娘を縛れる。縛れることを、愛情だと思っていた。
「足りない分、貸す」
「返せるか分からない」
「返さなくていい、とは言わない。返せる日に返して」
娘はスプーンを止めた。
「行ってもいいの」
真名はうなずいた。
「行ってほしくない。でも、行っていい」
玄関の外で、水たまりの縁が縮んでいる。
娘は目を伏せた。
「昨日みたいに喧嘩すると思ってた」
「私も」
最後の雨粒が消え、真名は今日の玄関前に戻った。
鍵は置かれたままだった。けれど郵便受けに、空港から出された絵葉書が挟まっている。
《着いたら電話する。帰る場所、なくさないで》
真名は家へ入り、娘の鍵を元の小皿へ戻した。
その夜、国番号から始まる電話が鳴るまで、プリンを二つ冷やして待った。