雨粒のままの髪
久世戸依鞠は、天気予報の降水確率より湿度を見る。
七十パーセントを超える日は、目覚ましを二十分早める。髪を濡らし、乾かし、伸ばし、熱を当てる。玄関を出るころには、自然にうねる髪を一度も存在しなかったことにできる。
中学のころ、雨の日に「寝癖のまま来たの」と聞かれた。否定できず笑ってから、依鞠にとって髪を整えることは身支度ではなく訂正になった。旅行にも出張にも、下着より先にアイロンを入れる。
新商品の説明会の日、駅を出たところで雨が降った。傘を開くまでの数秒で、前髪の端が曲がった。会社に着くころには、耳の後ろから柔らかな波が戻り、毛先は好き勝手な方向を向いていた。
依鞠は給湯室の鏡に顔を近づけた。会議まで十五分。引き出しには携帯用のヘアアイロンがある。コンセントを差し、温度表示が上がるのを待つ。
けれど、濡れた髪に何度も熱を通したせいで、毛先は白く裂けていた。指で挟むと、一本が簡単に切れた。
依鞠はアイロンの電源を切った。まだ百二十度を示している金属板を閉じ、耐熱袋へ戻す。代わりにタオルで水滴だけを押さえ、前髪を指で分けた。まっすぐにはならない。左右も揃わない。
鏡の中では、朝に消したはずの自分が戻っていた。依鞠は髪を押さえつける代わりに、濡れた襟だけをハンカチで拭いた。説明会で必要なのは、髪の形ではなく、手元の資料が濡れていないことだった。
説明会では、プロジェクターの光が強く、登壇者の輪郭まで少し白く飛んでいた。依鞠は資料をめくり、予定どおり商品の特徴を三つ話した。途中で髪が頬に触れたが、直しに走らなかった。質問が一つ出て、答えに詰まり、担当者へ確認して後で返すと伝えた。
会が終わると、机には回収するアンケートと空の紙コップが残った。成功とも失敗とも言い切れない、いつもの仕事の終わり方だった。
給湯室へ戻る途中、窓に自分の横顔が映った。湿気を含んだ髪は、朝より大きく広がっている。
依鞠は立ち止まらなかった。
引き出しのアイロンは冷えたまま、退勤時刻まで一度も開かれなかった。