雨粒の部屋番号

 窓の雨粒が、部屋番号の数字に見えた。

 榎本の部屋は四〇六号室だった。ガラスの上で大きな雫が四の縦線を作り、その横を細い水筋が丸く囲む。六だけはすぐ崩れ、下へ流れた。室外機が回るたび窓枠がかすかに震え、数字は別の形へほどけていく。

 眠れないのは、明日から後輩が隣の席へ来るからだった。

 教える側になった実感がない。自分の仕事でさえ、毎日たまたま終えられている気がする。「分からないことは何でも聞いて」と言う練習を、帰宅してから三回した。三回とも、最後の「ね」が頼りなく聞こえた。

 雨は強くなったり弱くなったりした。空調は設定温度へ近づくと黙り、湿気が戻るとまた低く回った。窓に四〇六が現れ、消え、別の数字になる。

 午前一時を過ぎたころ、玄関脇のモニターが一瞬だけ青く光った。誰かが一階のオートロックを開けたらしい。画面には映像が出ないまま、廊下の足音が遠くから近づいてきた。

 濡れた傘を閉じる音。鍵の束が触れ合う音。四〇五号室の扉が開き、誰かが小さなくしゃみをした。すぐ扉が閉まり、廊下のセンサー灯も消えた。

 挨拶をしたことのない隣人だった。顔も知らない。ただ、雨の中から同じ階へ帰ってきた人がいる。四〇五の扉の向こうで、やがて換気扇が回り始めた。

 四〇五と四〇六は一つ違うだけなのに、扉の中の暮らしは交わらない。それでも換気扇の低い音だけは壁際で重なり、廊下に残った雨の匂いを二つの部屋から少しずつ追い出していた。

 榎本は窓辺へタオルを一本置いた。古いサッシから入り込む細い水を吸わせるためだった。後輩に教える言葉は、朝になってから考えればいい。うまく言えなければ、分からないことを一緒に調べてもいい。

 窓の数字はもう四〇六に見えなかった。雨粒はただ下へ流れ、室外機の震えでときどき進路を変えた。

 机の上には、後輩へ渡す予備のペンと付箋が置いてあった。教え方は決まっていないのに、道具だけは二人分そろえている。その不格好さを、榎本は少しだけ信用してみた。頼れる先輩に見せるより、質問を途中で遮らないことなら、たぶん明日からできる。

 榎本はアラームを十五分遅く設定した。眠るための十五分ではなく、朝に言葉を選ぶための十五分だった。雨の部屋番号が消えても、自分の扉はここにある。今夜はそれだけ分かっていれば、一人で目を閉じられそうだった。