零号室の住所
石動廉太は二十八歳の宅配ドライバーだ。土砂崩れで県道が塞がれ、鳴代村の旅館「朝霧荘」へ一晩だけ避難した。
停電した帳場で、女将が蝋燭と宿帳を差し出した。住所欄は妙に広く、過去の客は番地だけでなく、玄関の向きや屋根の色まで書いている。
女将は頁の端を指した。
《住所欄に「自宅」と書いてはいけない》
廉太は配達先で個人情報を扱う仕事柄、知らない宿へ自宅住所を残したくなかった。会社名を書くのも規則違反だ。彼は一度だけ、住所欄へ「自宅」と記した。
女将は何も言わず、木札を渡した。表には「零」。廊下の突き当たりにある部屋は、外から見た建物の幅には収まらないほど奥行きがあった。
夜中、壁の向こうで荷物を置く音がした。
「零号室、お届け物です」
廉太は返事をせず、朝一番で宿を出た。道路は復旧しており、旅館を振り返ると客室は三つしかなかった。
帰宅後、配達アプリを起動すると、自宅登録が書き換わっていた。
名称:自宅
住所:鳴代村朝霧荘 零号室
居住者:石動廉太
修正しても保存すると元へ戻る。サポートへ連絡すると、「端末の現在地から自動設定されています」と返された。廉太は東京の自室にいる。窓の外には高架線が見える。
段ボールは翌朝も玄関前になかったが、配達履歴だけは《対面で完了》になった。受取サインは廉太の字で、時刻は彼が眠っていた午前三時。マンションの宅配ボックスには存在しない零番が追加され、管理人の端末からも開けられない。箱の中の重量表示は七十二キロで、廉太の体重と同じだった。廊下を歩くたび、背後で台車の車輪が一部屋ぶん遅れてついてきた。
翌日の勤務表では廉太の担当区域が《零号室内》へ変更され、配達件数は一件だけだった。宛先も差出人も彼自身である。
その晩、インターホンが鳴った。モニターには旅館の暗い廊下と、段ボールを抱えた自分が映っていた。
スピーカーから、配達時に毎日使う声がした。
「零号室の石動様。ご本人から、ご自宅宛てのお荷物です」
玄関の外で、彼の配達端末と同じ完了音が鳴った。