非常電話は外線につながりません
鏑木依音の乗ったエレベーターが止まったのは、残業帰りの午後十一時十八分だった。
照明が非常灯へ切り替わり、階数表示が消える。
依音が非常ボタンを押すと、すぐに夫の紘也の声がした。
『依音、落ち着いて。けがはない?』
「どうしてあなたが出るの」
『管理会社から転送された。出張先でも通知を受けられるようにしてあるんだ』
夫は海外出張中だった。
声を聞けた安心で、依音は疑わなかった。
紘也は、救助まで一時間かかると言った。
その間に酸素が薄くなるかもしれないので、天井の点検口を開けるよう指示した。
「勝手に開けて大丈夫?」
『俺を信じて。左奥に留め金がある。君の身長なら、非常用の手すりへ右足を掛ければ届く』
依音の身長も、右足首を昔傷めたことも知っている。
紘也なら当然だった。
椅子代わりに鞄を積み、手すりへ足を掛けた。
天井板へ触れたとき、スマートフォンが震えた。
〈紘也:いま空港に着いた。明日の朝には帰れる〉
依音は画面と非常電話を見比べた。
「紘也、今どこにいるの」
『機械室だよ』
声はそう答えた。
さっきまで出張先だと言っていたのに。
依音は点検口から手を離した。
『どうした。早く開けて』
「本当に紘也なの?」
受話器の向こうで、短い沈黙があった。
そのあと、夫と同じ声が笑った。
『昨日、寝室でそれを聞いたときは信じたでしょう』
依音は息を止めた。
前夜、夫から届いた音声通話は出張先からだと思っていた。寝る前に戸締まりを確認してほしいと言われ、玄関、浴室、クローゼットを映しながら部屋を歩いた。
『君の家は、天井裏が広いね』
頭上で何かが這った。
点検口の隙間から、細い金属工具が差し込まれる。
内側の留め金が、少しずつ持ち上がった。
依音は非常ボタンを連打した。
別の声は応答しない。
スマートフォンに、建物管理会社から一斉通知が届いた。
〈重要:機械室への不正侵入を確認しました〉
〈各エレベーターの非常電話は、機械室との専用回線です。外線転送機能はありません〉
天井板が数センチ開いた。
暗い隙間から、夫の声が降ってきた。
「やっと二人きりになれた」