食卓だけの写真
「私を撮らないで、テーブルを撮って」
江波戸紬は、何度聞いても意味が分からなかった。
退院できたのは午後の三時間だけ。友人の咲は酸素の細い管をつけたまま、紬の部屋のいつもの椅子に座っていた。二人で食べたのは、駅前のパン屋の卵サンドと紙カップのスープだった。
最後に一枚だけ写真を撮ろう、と言い出したのは咲のほうだった。咲は以前から写真に写るのが苦手で、集合写真ではいつも誰かの後ろに隠れた。それでも今日だけは顔を残したいのだと、紬は勝手に思った。窓辺に椅子を寄せ、カーテンを開け、スマートフォンのレンズを拭いた。髪を整えるための小さな鏡まで出した。ところが咲は首を横に振った。
「食べ終わったあとを撮って。人は入れないで」
「せっかく外に出られたのに?」
「だから」
咲はそれ以上説明せず、卵サンドの端をゆっくり食べた。紬も急がずにスープを飲んだ。話したのは、向かいの建物に干された黄色いタオルのことと、パン屋がまた十円値上げしたことだけだった。
迎えの車が来る十五分前、咲は椅子から立った。
「片づけもお願い」
頼み事は写真一枚のはずだった、と紬は思ったが、紙袋を畳み、カップを流しへ運んだ。テーブルにはパンくずが三つと、咲の紙コップが残した丸い水滴があった。
布巾に手を伸ばすと、咲が「そこはそのまま」と言った。
水滴の丸は、咲が紙コップを置くたびに少しずつ大きくなったものだった。卵サンドの包装紙には、紬が開けるのを失敗したぎざぎざの裂け目がある。きれいに整えれば、どこかの広告写真になる。残したままなら、今日の午後にしかならない。
紬はスマートフォンを構えた。画面の中には、空の椅子が二脚、少しずれたランチョンマット、窓から伸びる午後の光がある。きれいでも特別でもない。けれど、咲が何度も遊びに来た日の食卓と同じだった。
「縦? 横?」
「横。テーブル全部入るから」
「送る?」
「私のスマホじゃなくて、紬のアルバムに置いといて」
咲はそれだけ言い、画面をのぞかなかった。
紬は一歩下がった。咲は画面の外で、酸素ボンベの車輪を押さえている。
丸い水滴の縁に光がたまった瞬間、紬はシャッターを押した。