食器棚の青い線
食器棚の棚板に、澪佳は青い養生テープを一本貼った。
線より上は父が新居へ持っていくもの。下は処分するもの。そう決めたはずなのに、父は三十分で三度、下段の皿を上へ戻した。
「これは客が来たとき使う」
「新しい部屋、客用の椅子は一脚しかないよ」
「お前が来れば二人だ」
白磁の大皿には金の縁があり、洗うたび気を遣う。澪佳が実家で使った記憶はない。皿の裏には、母の字で「澪佳へ」と書いた付箋が貼られていた。
「これ、いつ貼ったの」
「昨日。母さんが、お前なら大事にするって」
施設に移った母は、電話で片づけの指示だけを出す。父はその声を、食器棚から食器棚へ運ぶ係になっていた。
「私の家には入らない」
「一枚くらい置けるだろう」
「置けるけど、置かない」
父は付箋を指で押さえた。「家のものが何もなくなるぞ」と言う。その言葉は大皿より重く、棚板をたわませるようだった。
澪佳は下段から、青い縁の小鉢を一つ見つけた。端が少し欠けている。幼い頃、冷やした桃を入れてもらった器だ。持ち上げると、父がすぐに言った。
「それは捨てろ。欠けてる」
「これは持つ」
「大皿より、そっちか」
「私が決めるなら、そっち」
澪佳は大皿の付箋を剥がした。丸めず、父の手のひらへ返す。
「お母さんが残したいものを、私の家に移すのは違う。二人で決めて。私は倉庫じゃないから」
父は返された付箋を見た。やがて大皿を青い線の上へ置き、代わりに湯のみを一つ下へ移した。
「これは要らん」
「本当に?」
「俺が決めるなら、要らん」
同じ言葉を、父は少し不器用に使った。
作業が終わると、上段には皿が六枚残った。下段には十七枚。澪佳の持ち帰り用の新聞紙には、欠けた小鉢が一つだけ包まれている。
父が食器棚を閉める前、青い線の端を爪で押さえた。
「次は、本棚にも線を引いてくれ」
澪佳は新しいテープを一本渡した。
「引くのは自分で。迷ったら、隣で見る」
父は頷き、青い線を自分の指で、今度はまっすぐに伸ばした。