餃子の羽が割れる音
閉店の札が出る寸前、若い客は滑り込むように店へ入った。濡れた作業着の肩から、夜の倉庫の冷気が落ちる。
「餃子、まだできますか」
店主は片づけかけた鉄板へ目をやり、「一人前だけ」と言った。
油を引いた面に餃子が並ぶ。水が注がれた瞬間、しゃあっと白い蒸気が立ち、蓋の内側で雨のような音が続いた。やがて水気が消え、ごま油の香りが広がる。皿へ返された六個の餃子は、薄い羽で一枚につながっていた。
客のスマートフォンには、送信前の退職メッセージが残っていた。
《本日をもって辞めさせてください》
今夜、班長に怒鳴られたのは三度目だった。積み方が遅い、返事が小さい、若いのに覇気がない。どれも言い返せなかった。けれど本当に苦しいのは、夜勤そのものだった。昼に眠れず、頭が霞み、フォークリフトの警告音を聞き落としそうになる。そのことを誰にも言わず、根性の問題にしていた。先週は帰りの階段で足を踏み外し、それさえ笑ってごまかした。
箸を入れると、餃子の羽がぱり、と割れた。静かな店では、その音が妙に大きい。
「崩しちゃいました」
客が言うと、店主は洗った鍋を伏せながら答えた。
「羽は、割れてからが餃子だ」
客は一個を酢につけた。焼き面は薄く硬く、内側からは熱い肉汁が出た。生姜の匂いが鼻へ抜け、冷えた指先まで温度が戻る。つながって見えた六個は、割ってしまえば一つずつ持ち上げられた。
退職の文面を消し、新しいメッセージを作る。
《明日、勤務帯の相談をさせてください。夜勤を続けると危ないと感じています》
辞めないと決めたわけではない。班長が聞くかも分からない。昼勤に空きがなければ、結局別の仕事を探すだろう。ただ、怒鳴られた勢いで全部を一度に切る前に、自分が困っている部分だけは伝えてみる。
送信予約を朝八時に設定した。店主は暖簾を外し、入口の灯りを一つ消した。
最後の餃子は少し冷めていた。それでも割れた羽の欠片は舌の上でぱりぱりと鳴り、肉汁の熱は、喉を通ったあともしばらく胸に残っていた。