おひつの底の十度
雪の昼、十二席の鮨店で、錦織琴葉は三貫続けて酢飯がほどけるのを見た。握った形は保つのに、客が箸で持つと米粒がばらばらに落ちる。
親方は合わせ酢の瓶を持ち上げた。
「今日の酢が弱いか」
琴葉は瓶ではなく、二つのおひつに指先を当てた。一つは人肌で、もう一つは木肌まで冷たい。崩れた三貫はすべて、勝手口に近い方から取った酢飯だった。
客席では常連が次の一貫を待ち、親方の包丁だけが規則正しく鳴っていた。琴葉は二つのおひつから一口分ずつ取り、同じ力で小さく握って皿へ置いた。温かい方は縁を軽く押すと戻り、冷たい方は表面に細い亀裂が走った。手癖の問題ではないことが、皿の上で見えた。
朝のシャリ切りは同じ桶で行い、二つへ分けている。味が原因なら両方に出る。午前中、魚の搬入で勝手口が何度も開き、冷気が片方だけを冷やしたのだ。冷えた米は表面が締まり、握る力を少し強めないとまとまらない。だが強く握れば、口の中でほどけなくなる。
「酢を足すか」と親方が聞いた。
琴葉は首を振った。酸味だけが増え、米の温度は戻らない。彼女は空のおひつを湯で温め、完全に拭いてから、冷えた酢飯を少量ずつ移した。上から押さえず、乾かないよう布を掛ける。勝手口側には衝立を置き、以後の搬入は店内側へ声をかけてから開けてもらった。
戻りを待つ間、琴葉は冷えた酢飯を強く混ぜなかった。米粒の表面を傷つければ、温度が戻っても粘りが出る。使う分だけを薄く広げ、木の熱が移るのを待ち、残りは触らずに置いた。親方は無言で二つの試し握りを食べ、追加の合わせ酢を棚へ戻した。
十分後、琴葉が握った小肌は、箸で持ち上げても崩れず、舌に触れた瞬間だけほどけた。親方は何も言わず、冷たいおひつを奥へ下げた。
客には原因も手直しも見えない。ただ四貫目から、箸を止める人がいなくなった。親方はその変化だけを見ていた。
昼の暖簾をしまう前、夕方の鮪が届いた。配達員が勝手口へ手を掛ける。琴葉は新しい酢飯を切りながら、先に衝立を押さえた。