お湯を替えてまいります

浴室侍女のカナンは、湯加減を確かめるたび同じ台詞を口にした。

伯爵令嬢リゼットが湯船に浸かる間、彼女は香油の瓶を並べ、濡れた床を拭き、花弁を七枚だけ浮かべる。会話も必要最低限。屋敷で一番目立たない侍女だった。

その晩、八枚目の花弁が浮いた。

リゼットが首を傾げる。

花弁ではない。水面すれすれに開いた、人間の目だった。

水に姿を変える暗殺者《溺れ蛇》が、湯船の底から彼女の足首へ手を伸ばす。叫べば口から侵入される。動けば喉を裂かれる。そう理解した瞬間、身体が凍った。

カナンは桶を持ち上げた。

「少し熱うございます」

そう言って、湯船へ一杯注ぐ。

水面が揺れたのは一度だけだった。

暗殺者の目が驚愕に見開かれ、次の瞬間、湯全体が透明に戻る。伸びていた腕も殺気も消えた。

リゼットに見えたのは、カナンが桶の縁を指で弾いたところまでだ。だが水面に映る天井鏡は、見逃さなかった。

桶から走った細い波紋が刃となり、暗殺者の魔力核だけを正確に断つ。人の形を保てなくなった敵は一滴の濁りも残さず湯へ溶け、その魂だけが、カナンの持つ空の香油瓶へ吸い込まれた。

瓶の底で、小さな影が暴れている。

カナンは栓をし、ラベルを剥がして屑籠へ入れた。続いて排水栓を抜く。湯は敵の痕跡ごと銀の管へ流れ、彼女は浴槽を香草塩で素早く洗った。

その手際を見て、リゼットは祖母の昔話を思い出す。

水の中でも息をせず、王を七人沈めたという伝説の暗殺者《空瓶》。最後の仕事の後、忽然と消えた女。

「カナン、あなたは……空瓶なの?」

浴室侍女は初めて手を止めた。

ほんの一瞬、鏡越しに令嬢を見る。その眼差しは湯気より薄く、刃より鋭かった。

「お身体が冷えます」

彼女は新しい湯を張り、今度こそ花弁を七枚だけ浮かべた。八枚目はない。瓶も、濁りも、暗殺者がいた証拠も消えている。

カナンは何も知らない侍女の顔に戻り、柔らかなタオルを差し出した。

「お湯を替えてまいります」