まだいない猫の住所

薬師寺真波は、入居申込書の「飼育予定動物」という欄でペンを止めた。

まだ猫はいない。

候補の部屋は二つあった。白い壁の新築ワンルームは駅から四分で、家賃も予算内。ただしペット不可。もう一つは線路沿いの古い二Kで、窓を閉めても電車の音がする。家賃は八千円高く、猫一匹まで相談可だった。

真波は半年前から保護猫の譲渡会へ通っていた。けれど申し込みはしていない。「一人で猫を飼うなら、先のことまで考えないと」と言われるたび、その通りだと思った。二十九歳の自分の予定さえ決められないのに、十数年生きる命を迎える資格があるのか。

新築の部屋なら、清潔で安全で、誰に見せても安心される。古い部屋なら、病院代に加えて高い家賃を払い、壁紙を傷つけられ、旅行にも行きにくくなる。

それでも内見の日、古い部屋の押し入れを開けたとき、真波は下段に小さな毛布を敷く光景を想像した。新築の白い床では、何も想像しなかった。

不動産会社から電話が来た。

「新築のお部屋、ほかにもお申し込みが入りまして。本日中なら優先できます」

急かされると、新築を逃すことばかりが怖くなった。真波は申込書を二枚並べた。片方は今より楽な未来。片方は、まだ会ってもいない猫に生活を変えられる未来だった。

「古いほうでお願いします」

声にしたあと、胸は軽くならなかった。むしろ責任が、八千円ぶん重くなった。

譲渡会でもらった冊子には、食費、保険、脱走防止柵の金額が並んでいた。真波は古い部屋の初期費用と足し、電卓の数字に顔をしかめた。可愛いと思うだけでは足りない。けれど足りなさを数えたうえで、それでも場所を空けることならできるかもしれなかった。

未来の猫が懐かない可能性も、病気になる可能性もある。真波は、想像どおりにならない同居人のために部屋を選ぶのだと知った。

電話を切り、真波は「飼育予定動物」の欄へ〈猫・一匹〉と書いた。名前の欄は空白にした。そこへ入る誰かを、これから自分で迎えにいくのだ。