まだ知らない曲

羽鳥佳澄がレコード店・灯台へ持ち込んだのは、赤いラベルの七インチ盤だった。亡くなった婚約者が、誕生日にこの店で選んでくれたものだ。彼は休日になると灯台へ通い、知らない盤を一枚だけ買って帰った。表側には二人が何度も聴いた曲が入っている。針を落とせば、狭い台所で踊った夜まで戻ってしまいそうで、三年間、紙袋から出せなかった。

来月、佳澄は一人で北の町へ行く予定だった。婚約者と予約していた宿を、命日ごとに延期し続け、今年こそ行くと決めた。それでも予約確認の画面を開くたび、キャンセルの文字へ指が近づいた。

宿の備考欄には、四年前に入力した「記念旅行」の文字が残っていた。人数だけは二名から一名へ直したのに、その言葉を消すことができない。旅行へ行けば彼を忘れるのではなく、彼のいない景色を自分の記憶に加えることになる。それが怖かった。

店主は盤面を斜めにして傷を見たあと、試聴台へ置いた。佳澄は表側が回り始めると思い、肩に力を入れた。けれど店主が針を落としたのは裏側だった。

知らないピアノが、少し速すぎるテンポで鳴った。途中で演奏者が鍵盤を外し、遠くで誰かが笑った。完璧に整えられた思い出とは違う、先の読めない二分四十秒だった。佳澄は曲名をジャケットで確かめようとしたが、裏側の印字は擦れて読めなかった。名前を知らなくても、音は最後まで進んだ。

「裏は聴いたことがありません」

佳澄が言うと、店主は返事の代わりに音量を一目盛り上げた。曲は失敗した音を置き去りにして進み、唐突に終わった。針が中心で小さく回り続けた。

店主は新しい内袋へ盤を収めると、ジャケットへ戻す向きを変えた。赤い表側ではなく、曲名も知らなかった裏側のラベルが、丸い穴から見えていた。包装紙も掛けず、厚紙の袋だけに入れ、会計票には「検盤済」と記した。

店を出た佳澄は、軒下で宿の予約画面を開いた。キャンセル期限は今日だった。三年間、彼と行く旅行を守ってきたつもりだったが、もうそれは彼の予定ではなく、佳澄が知らない町へ行くための予定だった。

彼女は「予約を維持する」を押した。紙袋の丸窓から、まだ知らない曲の側が見えていた。