バジルは夜に伸びる
莉央のベランダには、枯れかけたバジルが一鉢ある。
春に同僚からもらったときは、料理に使おうと思っていた。けれど帰宅は遅く、葉を摘むより総菜の蓋を開ける夜のほうが多かった。八月の終わりには茎ばかりが伸び、下の葉は黄色くなっていた。
午前零時、莉央は台所の照明をつけたままベランダへ出た。
室外機の風が、バジルの細い茎を同じ方向へ押している。ごう、と回り、止まり、また回る。向かいのマンションでは共用廊下の人感灯が、誰かの足取りに合わせて一つずつ点いた。
一階。
二階。
三階。
見えない人が階段を上がるたび、白い光だけが先へ進む。
莉央は土へ指を入れた。表面だけでなく、奥まで乾いている。朝に水をやろうと思っていたのに、朝はもう何度も過ぎていた。
台所からコップ一杯の水を持ってくる。
注ぐと、土が小さく鳴った。しゅう、と空気を吐き、水を吸い込む。鉢底から落ちた雫が床に丸い跡をつくった。
そのとき、隣のベランダから霧吹きの音がした。
しゅっ。
間を置いて、もう一度。
しゅっ。
仕切り板の向こうで、葉の擦れる音がする。姿は見えない。何を育てているのかも分からない。やがてガラス戸が閉まり、隣の照明が細い隙間から消えた。
莉央はバジルの先を見た。
いちばん上に、親指の爪ほどの新しい葉が二枚ある。昼間には気づかなかった。元気だと呼ぶには小さく、助かったと決めるには頼りない。それでも、枯れた葉の間で薄い緑を保っていた。
莉央は黄色い葉を全部むしらず、一枚だけ外した。明日の朝食を手作りする予定も立てない。水差しを鉢の横へ置くだけにする。
室外機が止まり、夜気が一度まっすぐになった。
指先には青い匂いが残った。料理にならず、飾りにもならない、生きた葉の匂いだった。仕切り板の向こうでは、霧吹きの水がどこかの鉢から一滴ずつ落ちている。莉央はその数を最後まで数えなかった。
人感灯はもう消えている。
莉央は新しい葉を摘まずに残し、台所の照明を少し暗くして、冷たい総菜を温めた。