パン屋の角で
伏見絢音は、獣医から帰る車の中で夕食を考えた。母は遅番、冷蔵庫には卵が一つ。角のパン屋なら十九時まで開いている。サブレは明日から酸素室に入り、外を歩くことはもうない。
「塩パン、買いに行こうか」
助手席のキャリーから、白い耳がわずかに動いた。
家に車を置き、絢音はサブレへ赤いリードをつけた。十六歳のミックス犬は、パン屋までの百二十メートルを知っている。若いころは焼き上がりの匂いを追って走り、店の角で必ず急停止した。今夜は一歩ごとに爪が舗道を擦った。
途中、サブレはマンホールを避けた。雨でもないのに水たまりを回り、薬局の前で休んだ。絢音は急がせず、閉店札が裏返されないことだけを遠くから見ていた。
パン屋の前にはリードを結ぶ金具がある。絢音がしゃがむと、サブレは店内へ入るつもりで鼻先を扉へ寄せた。
「すぐ戻る」
店には塩パンが一つだけ残っていた。トングで取ると、奥から店主が出てきた。ガラス越しにサブレを見て、何も聞かず、食パンの耳を小さな紙へ包んだ。
「これは、おまけ」
絢音は断らなかった。
外へ出ると、サブレは伏せていた。紙包みを開き、パンの耳を指でちぎる。塩のついていない内側を爪ほど渡すと、サブレは匂いを確かめ、時間をかけて飲み込んだ。
帰りは抱いた。散歩ではなくなる気がしたが、サブレの前脚はもう地面を探さなかった。腕の中で、鼻だけがパンの袋へ向いている。
家に着き、絢音は塩パンを皿へ載せた。母の分として半分に切り、片方へラップをする。サブレにもらった紙包みは空だった。
母から〈何か買って帰る?〉と届いた。絢音は〈もうある〉と返し、塩パンの切り口を下にして乾かないよう皿へ伏せた。サブレは台所の入口で、空の紙包みと皿を交互に見たが、催促する声は出さなかった。
袋の内側には、まだ焼いた小麦の匂いが残っていた。絢音は口を閉じる前に一度だけ空気を逃がした。
絢音はその紙を小さく畳み、パン袋の口を留めるクリップの下へ挟んだ。クリップが乾いた音を立て、今夜の食卓の支度が終わった。