ピアノの送り先

「今月中に決めて」

父の電話は短かった。汐里が子どものころ弾いていたアップライトピアノを、家の改装前に処分するという。

メッセージには二枚の写真が届いた。一枚は回収業者の「廃棄」札。もう一枚は、町の放課後教室が出した「楽器を譲ってください」という募集票。寄贈するなら運送費は汐里持ちで、調律も必要だった。

二十九歳の汐里は、もう十五年まともに弾いていない。都会の部屋には電子鍵盤すらない。それなのに廃棄札を見ると、黒い蓋の下にしまった時間まで粗大ごみになる気がした。

「送ってもらう?」と父が聞いた。

一瞬、部屋を広い場所へ移し、もう一度練習する未来を想像した。朝にハノンを弾き、昔の自分へ戻る未来。けれど、それはピアノを残したいのではなく、残しておけば何者かになれたかもしれない自分を捨てずに済む、というだけだった。

「放課後教室に聞いてみて」

父は意外そうに黙った。「知らない子に傷つけられるぞ」

「弾かれないよりいい」

電話のあと、汐里は二枚の送り状を作った。自宅宛てには書きかけの住所。教室宛てには最後まで書いた住所。運送費の欄を見て、少しひるんだ。思い出を手放すのに、どうしてこちらが払うのだろう。

翌日、教室から「鍵盤が二つ鳴らなくても大丈夫です」と返事が来た。汐里は寄贈申込書に署名した。

あのピアノは、いずれ落書きされるかもしれない。自分より下手な手で叩かれ、知らない歌を覚えるだろう。

送信ボタンを押した瞬間、汐里はそれを損失ではなく、所有を終える責任として受け取った。最後の一音を決める権利まで、誰かに渡した。

搬出の日、父が短い動画を送ってきた。空いた壁には、四角い日焼け跡だけが残っていた。数日後、放課後教室からは、子どもが一本指で同じ音を何度も鳴らす動画が届いた。外れた音程で、汐里の知らない歌だった。保存するか迷い、結局「寄贈完了」という名前でフォルダへ入れた。自分の演奏の続きではない。だからこそ、ピアノが自分抜きで始めた時間を、直そうとせずに残した。