フライパンの底

流しの水に、黒いフライパンが沈んでいた。

岩永伽耶が余命を告げられて帰宅したときも、朝と同じ姿だった。

水は朝から張られたままで、表面に薄い油の輪が浮いている。同居人が昨日、焼きそばを焦がしたものだ。出勤前に「帰ったら捨てる」とメモを残していた。

伽耶は病院の封筒を食卓に置き、上着も脱がずにフライパンを持ち上げた。底には麺の形がそのまま炭になって貼りついている。木べらで押しても動かない。

二人でこの部屋へ越した日に、駅前の店で買った千八百円のフライパンだった。高くはない。買い替えても困らない。表面の加工はまだ剥げていないので、金属たわしだけは使えなかった。焦げを取るために、使える部分まで傷つけるのは違う。それでも同居人は、物を捨てるたび同じものを選ぶまで三日かかる。伽耶は三日間、夕飯の相談をされ続けることになる。

余命の数字を聞いたあとで考えることとしては、ひどく小さい。だから、ちょうどよかった。

重曹を振り、水を一センチ入れる。火にかけると、細かな泡が焦げの縁から上がった。換気扇を回し、窓を少し開ける。病院の消毒液とは違う、濡れた炭の匂いが部屋に広がる。

沸騰させて五分。火を止め、触れられる温度まで待つ。待つあいだ、同居人から〈診察どうだった〉と届いた。伽耶は画面を伏せた。嘘を考えるためではない。指が濡れていた。

古いポイントカードの角でこすると、焦げが黒い膜になって剥がれた。一度では取れず、何度も同じ場所を押す。途中で息が切れ、椅子を流しの前へ運んだ。座ってやれば、作業は続く。

最後まで残ったのは、中央の小さな円だった。同居人なら「顔に見える」と言いそうな形で、二つの穴まである。伽耶は笑わず、重曹をもう少しつけた。

円の端へカードを差し込み、ゆっくり起こす。途中で切れそうになり、反対側からもう一度差し込む。黒い塊が一枚で浮き、流しへ落ちた。

水で流すと、フライパンの底に元の濃い灰色が戻った。伽耶は布巾で水気を拭き、コンロの上へ伏せた。黒い焦げは、もうどこにも残っていなかった。