プリンは一つ余る
喫茶店の閉店まで、あと十二分だった。
野々宮香蓮が窓際の席に着くと、久我暁人はすでにプリンを二つ注文していた。付き合っていた頃、二人はいつも最後の一口を取り合った。
「一つでよかったのに」
「香蓮も食べると思って」
「勝手に決めないで」
三年前、暁人は元恋人とキスをした。
一度だけだった、と彼は言った。酔っていた。すぐに離れた。自分から香蓮へ話した。どれも事実だったが、香蓮の中では、事実が増えるほど裏切りの輪郭が濃くなった。
別れてからも、共通の友人の集まりで顔を合わせた。普通に笑い、普通に話した。嫌いになれないことが、許したことだと思われるのが怖くて、二人きりにはならなかった。
今夜、この店が閉まる。暁人から〈最後にプリンを食べない?〉と届き、香蓮は三日悩んで来た。断る文章は何通も作れたのに、送れたのは〈十九時なら〉の五文字だけだった。
「一度だけ、話したかった」
「その言い方、嫌い」
「分かってる」
「一度だけなら小さいことみたい」
「小さくない」
店員がラストオーダーの札を裏返した。
暁人は自分のプリンに手をつけない。
「許してくれとは言わない。俺が、香蓮の中でずっと悪い人でも仕方ない」
「仕方ない顔しないで」
「じゃあ、どういう顔をすればいい」
「知らない」
短い沈黙の間に、カラメルが皿へ広がった。店内にはコーヒー豆を缶へ戻す音が響く。暁人がカラメルを苦いと言って、香蓮の分まで食べていた頃を、舌が勝手に思い出した。
香蓮が好きと言えない理由は、彼が一度裏切ったからだけだった。けれど、その一度を理由に、三年間ずっと自分の気持ちまで閉店させてきた。
「一度で壊れたんだよ」
「うん」
「元に戻るとは思ってない」
「うん」
店員が伝票を置く。閉店まで三分。
香蓮は自分のプリンを半分だけ食べ、スプーンを置いた。
「でも、一度だけって言うなら」
暁人が顔を上げる。
「一度だけ、もう一度会う。ここじゃない場所で」
告白の代わりに、香蓮は余っていた二本目のスプーンを紙ナプキンで包み、暁人の鞄へ入れた。許した印ではなく、次の席を逃げずに作るための印だった。店を出る直前、来週の日曜を空白のままにせず、二人の予定としてカレンダーへ残した。