ベランダの営業部長

 住宅設備の営業をしている但馬一成は、毎日、誰かに頭を下げていた。

「今月中にご決断を」

「もう少しだけお時間を」

「申し訳ございません」

 帰宅すると、今度は黒白の猫がベランダで待っていた。

「遅い」

 鳴き声が、そう聞こえる。

「今日は契約が二件取れたんだぞ」

「遅い」

「しかも夕飯はまだだ」

「遅い」

 猫は網戸の前から動かない。

 最初に現れたのは六月だった。隣の空き地から塀を伝い、ベランダの室外機で昼寝をしていた。餌をやるつもりはなかったが、豪雨の日にタオルを差し出したのがまずかった。翌日から朝夕の訪問が始まり、やがて一成が帰る時刻を監督するようになった。

 首輪はなく、近所で聞いても飼い主は見つからない。偉そうな座り方から「部長」と呼んだ。

 部長は部屋へ入りたがるくせに、窓を開けてもすぐには入らない。

「どうぞ」

 動かない。

「お入りください」

 まだ動かない。

「本日はお越しいただき、誠にありがとうございます」

 ようやく尾を立てて入る。

 営業先より扱いが難しかった。

 ある金曜、一成は上司に呼び止められた。

「明日の資料、今夜作れるよな」

 以前なら反射で「はい」と答えた。だが携帯には、昼に設置した見守りカメラの通知が来ていた。部長が窓辺へ座り、暗い部屋を見ている。

「明朝なら仕上げられます。今日は帰ります」

 言った瞬間、背中に汗をかいた。上司は少し驚いたあと、「じゃあ九時までに」とだけ答えた。

 九時前に帰ると、部長はいつもの位置にいなかった。

 胸が騒いで名前を呼ぶと、植木鉢の陰からのっそり現れ、大欠伸をした。

「心配させるなよ」

 抱き上げると、部長は一成の顎へ頭をぶつけた。慰めか抗議かは分からない。

 一成はコンビニの鍋焼きうどんを火にかけ、部長には猫用のささみを出した。小さな部屋に出汁の匂いが満ち、硝子戸が湯気で曇る。

「本日の報告です。無事、帰宅しました」

 部長は座布団の中央で目を細めた。

 承認されたらしい。

 翌日、一成は正式な飼育届を管理会社へ出した。役職欄はなかったので、猫の名前だけを書いた。

 部長はその夜もベランダを一巡し、最後に一成の布団へ潜り込んだ。冷えていた足先へ、丸い背中の熱がゆっくり移ってきた。