ベンチは話を聞かない
私は、市民病院の中庭にある木のベンチだ。
人は、私が話を聞いてくれると思って座る。
検査結果の封筒を開けられない人。見舞いに来たのに病室へ入れない人。もう会えない人へ電話をかけるふりをする人。
私は返事をしない。ただ、重さを受け取る。
冬のあいだ、黒いコートの男が毎日座った。午前十時から十一時まで、必ず右端。隣には誰も座らせないよう、花柄の鞄を置いた。
やがて鞄だけが古くなり、男はもっと黙るようになった。
中庭を掃く女性が、毎朝声をかけた。
「おはようございます」
男は答えなかった。
次の日も、その次の日も。
「今日も寒いですね」
「梅が一つ咲きました」
「その鞄、すてきですね」
ある朝、男が低く言った。
「妻のです」
女性は箒を止めず、「そうでしたか」とだけ答えた。
男の妻は、この病院で長く治療を受け、春を待たずに亡くなった。男は退院の日に迎えへ来る約束をしていたため、亡くなったあとも同じ時間に中庭へ来ていた。
「もう来る意味はないんです」
男が言うと、女性は落ち葉を集めながら笑った。
「ありますよ。毎朝、私が挨拶する相手が一人増えます」
「それだけですか」
「それだけって、案外大事です。ベンチは返事してくれませんから」
失礼な人だ。私は少し軋んだ。
男は、ほんの少し笑った。
翌日、彼は「おはようございます」と返した。声は小さかったが、女性は中庭の端まで届く声で「はい、おはようございます!」と応じた。
それから男は、掃除の間、花柄の鞄を膝へ置くようになった。空いた左側へ、杖の老人や、泣いている若者が座った。彼は話を聞こうとはせず、ただ席を半分空けた。
春、男は病院の園芸ボランティアになった。妻が好きだった花を植え、私のささくれへ紙やすりをかけた。
「話を聞いてくれて、ありがとう」
私にそう言った。
勘違いだ。
私は何もしていない。
毎朝の挨拶が、彼の沈黙へ小さな入口を作ったのだ。
けれど訂正できないので、私は今日も誰かの重さを受け取りながら、少しだけ誇らしく軋んでいる。