一分早い救急車

救急隊員だった伊集院翠臣には、忘れられない到着時刻があった。十九年前、団地の前に着いたのは通報から七分後。窓から落ちた六歳の子は、あと一分早ければ助かったと医師に言われた。

定年後、翠臣は過去修正AIへ退職金の半分を払った。信号制御を一度だけ変え、救急車を一分早く到着させた。

世界が更新されると、子どもは生きていた。成人し、小学校教師になっていた。翠臣の家には、見知らぬ感謝状が飾られていた。

代わりに、妻の写真には黒い帯がかかっていた。

あの事故で世論が動き、古い団地の窓に安全柵を義務づける法律ができた。子どもが助かった世界では法案は提出されず、十三年後、別の団地で転落事故が相次いだ。妻は孫をかばって亡くなった。孫も足を失っていた。妻は元の世界で、安全柵法の署名を集めた中心人物でもあった。翠臣の端末には、彼女が議会で「子どもの死を一件で終わらせない」と訴える映像が残っていた。救った子どもが生きる世界では、その言葉を妻自身が言う機会さえ失われていた。

教師は、自分の教え子の妹も転落事故で負傷したと話した。助かった人生の中で、彼もまた制度がなかった代償を背負っていた。

修正AIは冷静に告げた。元へ戻せば妻は生き返る。ただし教師になった一人は、六歳で死ぬ。

翌日、その教師が訪ねてきた。自分が時間改変で救われたことを、監査通知で知ったのだ。

「戻してください」と教師は言った。「僕一人より、法律で救われた人の方が多い」

翠臣は首を振った。救命の現場で、人を人数に直した瞬間から、手は動かなくなる。

「君を殺して妻を取り戻したら、私はもう妻に会える人間じゃない」

二人は安全柵のない団地を一棟ずつ調べ始めた。教師は保護者に訴え、翠臣は古い人脈を回った。法律になるまで三年かかった。その間にも事故は起き、妻は戻らなかった。

新法の施行日、孫は義足で式典に立った。教師は黙って頭を下げた。

一分の修正は世界を壊した。彼らは、その壊れた現在を、今度は時間ではなく自分たちの手で直していった。