一回だけの空振り
世界再生炉へ続く階段で、水鏡ユラセは管理官オルダンから黒鍵を奪った。
《初期化鍵》
一回だけ使用可能。
対象が有効かどうかにかかわらず、使用操作の確定時に消費します。
「返せ! 炉を再起動しなければ全員死ぬ!」
背後では空が崩れ、都市のデータが砂のように消えている。オルダンは世界を初期化すれば救えると言う。だが初期化対象一覧には、プレイヤーだけでなく人格を得たNPCも含まれていた。
ユラセは炉へ走らず、階段脇の古い物置へ飛び込む。
そこには鍵穴の壊れた木箱が一つ。
「何をする気だ」
初期化鍵を木箱へ差し込み、《使用》を押す。
《対象は無効です。実行しますか》
はい。
黒鍵が一度光り、粉々に消えた。木箱は開かない。
オルダンの顔から血の気が引く。
「無効対象なら消費されないはずだ!」
「説明には逆が書いてある」
初期化炉の鍵穴が灰色になる。世界を消してやり直す操作は、もう誰にもできない。
崩壊は止まらない。仲間たちがユラセを責める。初期化なら少なくともプレイヤーは生き残れたかもしれない。
そのとき、木箱の説明が更新された。
《旧式バックアップ箱》
初期化鍵の使用操作を検出した場合、初期化前データを外部へ退避します。
鍵を正しい炉へ使えば、退避と同時に世界は消えていた。無効な箱へ空振りしたため、バックアップだけが動き、削除処理は発生しない。
箱から白い光が広がり、崩れていた町と住民を包む。消滅寸前のデータが現実側の保存領域へ転送されていく。
オルダンは膝をついた。彼が守ろうとしたのは世界ではなく、初期化後も管理官でいられる自分の権限だった。
《初期化鍵を消費しました》
《有効対象への使用回数:0》
バックアップ光の中には、初期化を何度も経験したNPCの古い人格も含まれていた。オルダンは彼らを不具合として削除し、毎回同じ世界を作り直していた。
ユラセが空振りへ使った一回は、何かを開く機会ではなく、やり直す権利そのものを使い切る選択だった。
木箱は最後まで開かない。それでも外側へ退避した住民たちは、初期状態へ戻されない最初の明日を持った。
《世界初期化を永久停止――一回だけの鍵は、正しく使うためではなく、二度と使えなくする空振りにも使用できます》