一文字ぶんの呼吸

宇佐美灯が文芸編集部へ入って初めて任されたのは、短編集の初校整理だった。返ってきた著者メールの件名は、たった六文字だった。

〈読めなくなった〉

電話をかけると、作家は挨拶もなく言った。

「私の文章から、呼吸を全部抜きましたね」

灯は校正紙を見た。誤字はない。表記も社内基準に揃っている。先輩編集者は肩をすくめた。

「空白や長いダッシュにこだわる先生だから。『規定です』で押して」

だが、作家が問題にした箇所を原稿データと比べると、奇妙な規則が見えた。台詞の前に置かれた一字空け、三点リーダーの後の空白、段落末の長い横線。そのすべてが一括で消えている。

灯は制作部の変換履歴を開いた。入稿時に走る自動整形マクロが、今回から更新されていた。「不要スペース削除」の範囲が、本文全体へ広がっている。

著者の癖ではなく、会社の処理だった。

「規定の問題ではありません。こちらの変換ミスです」

灯が言うと、先輩は声を落とした。「制作のせいにすると揉める。先生には、意図を確認したことにして直そう」

それでは次の本でも同じことが起きる。

灯は全二百十二ページを検索し、削除された空白と横線を拾った。空白の直後には、別れを告げられない人物の台詞が多かった。横線は、時間が飛ぶ場所だけに置かれている。どれも飾りではなく、読者が立ち止まるための標識だった。

ただ戻すだけではなく、意図的な空白と単なる入力揺れを色分けし、作品専用の表記表を作る。作家へは、原因と修正方法を短く書いた。

送信前、指が止まった。新人の名で会社のミスを認めれば、叱られるかもしれない。

けれど電話の向こうの「読めなくなった」は、怒りより、作品を失った人の声だった。

灯は差出人を共有アドレスから自分の名へ変えた。

〈一文字ぶんの空白も、本文として扱います。修正版をご確認ください〉

数分後、返信が来た。添付された二ページ目には、灯が迷って黄色をつけた空白について、〈ここは半歩ぶん〉と赤字があった。灯はその指示を表記表へ加えた。

〈これなら息ができます〉

机には、まだ担当の決まっていない次の原稿が置かれている。灯はその束を自分の側へ引き寄せ、担当希望欄に丸をつけた。