一番に連絡する人
「友達なら、ここまでで大丈夫」
甲斐谷澄花は、日帰り手術の受付前で矢萩直己へそう言った。
簡単な処置だと医師から説明されている。けれど麻酔を使うため、帰宅時には付き添いが必要だった。家族は遠方で、澄花が頼んだのは十年来の友人である直己だった。
受付票の続柄欄へ、彼は迷わず《友人》と書いた。
その二文字を見て、澄花は安心し、同じくらい寂しくなった。直己とは週末に食事をし、風邪を引けば薬を届け合う。互いの家族より近況を知っているのに、書類の上では友人以外の何ものでもない。
「終わるころ迎えに来てくれればいいよ」
澄花が言うと、直己は待合室の椅子へ座った。
「ここにいる」
「三時間かかるよ」
「知ってる」
処置を終えた澄花が戻ると、直己は同じ席で眠っていた。膝には仕事用の鞄、手には冷めた缶コーヒー。呼びかける前に目を覚まし、立ち上がる。看護師から注意事項を聞く顔は、本人より真剣だった。
病院を出ると、麻酔の名残で足元が少し揺れた。直己は澄花の腕を支え、タクシーまで歩く。
「もう平気。友達なら、ここまでで――」
言い終える前に、彼の手が澄花の手を包んだ。
「今日は、手を離さない」
直己はタクシーの行き先へ自分の住所を告げた。彼の部屋には、澄花が好きなスープと、翌朝用のパンが用意されているという。さらにスマホの予定表には、一週間後の診察、二週間後の散歩、来月の映画まで入っていた。
「付き添いは今日だけでいいのに」
「今日だけのつもりで来てない」
告白の代わりに、直己は澄花のスマホを借りた。緊急連絡先に登録されていた《矢萩直己/友人》の《友人》を消す。空白のまま返された画面へ、澄花は自分で《一番に連絡する人》と入力した。
それから連絡先の表示名を《直己》へ変える。
「澄花」
呼び返された名前が、車内に静かに落ちた。二人の手は、部屋に着いてもつながったままだった。
友達なら、ここまでで大丈夫。
けれど直己が越えたのは病院の出口ではなく、澄花が一人で平気なふりをする境界だった。