一駅ぶんの余白

真鍋由依の一日は、駅名で区切られていた。七時四十二分に南町、八時十三分に大手前、十九時五十八分にまた南町。違うのは残業時間だけだった。駅前で買う弁当も、改札を出て右へ曲がる順番も変わらない。会社では半年ごとに異動希望を書くのに、第三希望まで埋めたあと、提出前に第一希望を消す。期待して落ちるより、最初から望まなかったことにするほうが楽だった。今回の異動先は、新規事業を扱う小さな部署だった。由依は説明会へ三度参加し、募集要項も保存していた。それでも希望欄から消した夜、自分で諦めたのだから傷つく資格もない、と言い聞かせた。

車内で向かいに座った年上の女が、古いインスタントカメラを窓へ向けていた。地下区間だから、写るのは黒いガラスと車内の反射だけだ。

「何を撮ってるんですか」

由依が訊くと、女はシャッターを切った。

「まだ降りたことのない駅へ向かう顔」

写真が機械の口から吐き出される。女は志津と名乗り、六十七歳で初めて一人旅をしている途中だと言った。大きな荷物はない。紙袋に下着と充電器だけ入っているらしい。

「この路線、終点までに知らない駅はいくつ?」

由依は路線図を見上げた。毎日乗っているのに、南町より先の四駅は名前しか知らない。

「四つです」

「じゃあ今夜、一駅だけ余らせてみない? 降りたら、改札の外が何の匂いか確かめる」

由依は笑った。明日も仕事だ。家には冷凍したご飯があり、二十二時から配信ドラマを見る予定もある。

志津は現像途中の写真を由依へ渡した。黒い窓に、疲れた由依と、面白がっている志津の顔が重なっていた。

南町に着く直前、由依のスマートフォンが震えた。半年前から希望していた異動について、「今回は見送り」とだけ届く。由依は通知を閉じた。驚かなかった。期待していないふりは、いつの間にか得意になっていた。

ドアが開く。いつもの人波が立ち上がる。由依も鞄を抱え、腰を浮かせた。

そのまま座り直す。

ドアが閉まり、南町の看板が後ろへ流れた。志津はもう別の車両へ移っていた。次の駅名がアナウンスされる。由依は膝の上の写真を裏返し、知らない駅で降りるため、鞄の持ち手を握り直した。