七行目の深呼吸

千種澄花は土曜ごと、児童館で絵本を読んでいる。ある日、古本寄付で届いた『月を運ぶくじら』を開くと、七行目ごとに薄緑の斜線が入っていた。

斜線の横には、小さく「息」「ゆっくり」。それは、緊張すると言葉が詰まる澄花が、いつも苦しくなる場所とぴたり重なった。

澄花は子どもの頃、音読の順番が来るたび保健室へ逃げた。大人になってからは詰まる前に早口で駆け抜ける癖を覚えたが、子どもたちは急かさず待ってくれる。だから読み聞かせだけは続けたかった。風間は「寄付本にはよくある印」と言い、八尋は自分の担当曜日ではないと首を振った。蓬田だけは、本を見ると視線をそらした。

書いた可能性があるのは、寄付本を点検する風間、読み聞かせ仲間の八尋、毎週息子を迎えに来る蓬田の三人だった。

手掛かりは三つ。薄緑の鉛筆は館内では言語訓練室にしかない。斜線の下には、前の持ち主が書いたらしい「もっとはっきり」という文字を消した跡。そして印は、先週澄花がつまずいた頁から始まっていた。

その日の会では、斜線どおりに息を入れてみた。沈黙が出来ても、子どもたちは頁のくじらを見つめたまま待っていた。読み終えると一番小さな子が「今日はくじらも疲れなかったね」と言った。印を書いた人は、澄花だけでなく聞く側の呼吸も知っていた。

読み聞かせ後、澄花は訓練室の前で蓬田を待った。彼の息子は発音の練習に通っている。

問いかけると、蓬田はしばらく黙り、鞄から同じ色の短い鉛筆を出した。

「余計なことだと思ったんです。でも、あの『もっとはっきり』を見たら、残しておけなくて」

彼は先週、澄花が詰まったあと、子どもたちに「待ってくれてありがとう」と笑ったのを聞いた。その言い方に、練習を嫌がる息子が初めて本を借りたいと言ったという。

「助けたかった。でも直接言えば、苦手なところを見ていたと伝えることになるから」

だから古い注意書きを消し、呼吸の場所だけ残した。

澄花は責める代わりに、次の頁へ自分で斜線を一本足した。

その日の最後、息子が同じ本を抱えた。

「お姉さん、ここ、いっしょに息する?」

澄花は七行目で深く吸い、最後まで読んだ。帰り際、紙コップのりんごジュースを一口飲む。

「来週も、ゆっくりでいい?」

子どもたちは声をそろえた。

「そのほうが、長く聞けるよ」