三段目が覚えていたこと
仮面夜会の大階段で、聖女フィオナが転げ落ちた。
幸い三段下で抱き留められたが、足首には赤い魔力糸が絡んでいる。その糸はロズウェル家の色だった。
「セレフィナ様が三段目に罠を張ったのです」
フィオナの訴えを聞くなり、公爵令息マティアスは婚約者を睨みつけた。
「悪役のまねごとにも限度がある。君との婚約を破棄する。聖女へ跪いて詫びろ」
セレフィナは階段を見上げた。幼いころから建築図面が好きで、この階段の改修案まで覚えている。罠の糸と家色が一致しただけで、招待客はもう彼女の弁明を聞く気がない。十年の婚約さえ、三段分の距離より軽かった。彼女は扇を閉じ、呼吸を一つ整えた。
「跪く前に、宮廷建築卿へ確認を願います」
太い眉をしたブラムウェルが、宴席の隅からゆっくり現れた。彼は三段目の側面に埋め込まれた真鍮板を外す。
そこには《階段鐘》という記録魔法が一つだけ仕込まれていた。段に異物が結ばれると、作業した手の魔力紋を保存する安全装置である。
真鍮板に触れると、赤い糸を結ぶ指が淡く再生された。
白い袖。聖女の指輪。フィオナ本人の金色の魔力紋。
「三段目は、踏まれた回数より、細工された手をよく覚えております」
ブラムウェルは板を戻した。証明はそれだけで十分だった。
フィオナは足首を抱えたまま黙り込み、マティアスは仮面の下まで赤くなる。先ほどまでセレフィナを責めていた客たちは、今度は視線だけを聖女へ移した。
「セレフィナ、これは聖女の思い違いだ。婚約破棄は撤回する。君も騒ぎを大きくせず、私の隣へ戻れ」
「殿下は、階段より記憶が短いのですね」
広間のあちこちで息を呑む音がした。
「私は罠を張ったと決めつけられ、跪けと命じられました。戻る段などございません」
ブラムウェルが図面筒を脇へ抱え、石灰のついた大きな手を差し出す。
「東都に、百年崩れぬ橋を架ける。設計補佐として来るなら歓迎する。ただし、階段は自分で上ることだ」
「もちろんです」
セレフィナはマティアスに背を向け、三段目を踏み越え、ブラムウェルの手を取った。