九十二日目に蝉は黙る
谷の夏は、アシュナという青年の姿でやって来る。
初夏の鐘が鳴ると森から現れ、川を温め、麦を金色にし、九十二日目の夕暮れに消える。
秋守りのユエラは、その最後の日に季節送りの鐘を鳴らす役目を持っていた。
二人が恋に落ちたのは、四十七日目だった。
アシュナは人間の菓子を食べてみたいと言い、ユエラは蜂蜜の焼き菓子を渡した。
彼は熱いものへ息を吹く必要がないことも、夜になっても眠くならないことも、彼女は少しずつ知った。
「私が鐘を鳴らさなければ、残れる?」
七十日目、ユエラは訊いた。
「残れる」
アシュナは答えた。
「ずっと夏になる」
「悪いこと?」
「麦は実ったまま落ち、井戸は干上がり、冬の種は眠れない」
ユエラは鐘楼の鍵を握りしめた。
それでも二人は、残りの日を数えた。
八十日目、湖で泳いだ。
八十八日目、町外れの丘で星を見た。
九十一日目、喧嘩をした。
「人間は来年も夏を迎える」
アシュナが言った。
「あなたは同じアシュナとして戻るの?」
「季節には記憶がない。次の夏は、君を知らない夏だ」
だから、これは別れではなく消滅に近かった。
九十二日目、蝉が朝から激しく鳴いた。
町の人々は秋を迎えるため、鐘楼の下へ集まった。
ユエラは鐘へ手をかけたが、動けなかった。
アシュナが背後から彼女の手へ触れる。
夏の手は、陽だまりのように熱かった。
「鳴らして」
「あなたがいなくなる」
「君が好きな谷を、僕のために枯らさないで」
「来年のあなたを、また好きになっても?」
「それは次の夏へ訊いて」
ユエラは泣きながら笑った。
そして鐘を鳴らした。
一打目で風が冷えた。
二打目で木の葉が色づいた。
三打目で、蝉がいっせいに黙った。
アシュナの身体は光の粒へほどけた。
最後に彼は、初めて食べた焼き菓子の味を口にした。
「甘かった」
それだけを残して消えた。
翌年、初夏の鐘とともに、よく似た青年が森から現れた。
彼はユエラを見ても、初対面の礼をした。
「秋守りの方ですね」
「はい」
ユエラも礼を返した。
好きだった人の続きを求めれば、この新しい夏を過去へ縛ってしまう。
それでも焼き菓子を一つ差し出した。
青年はかじり、首をかしげた。
「なぜか、懐かしい味がします」
ユエラは笑った。
ひと夏の恋は戻らない。
けれど季節のどこかに、別れきれなかった甘さだけが残っていた。