九十歳の初恋

江幡トヨは九十歳の誕生日に、六十年分の記憶を削除した。

脳の容量が限界に近づき、最近の出来事から順に失われ始めていた。医師は、古い記憶を整理すれば新しい日々を長く保てると言った。トヨが選んだのは、三十歳から九十歳までだった。

「若いころの私に戻ってみたいの」

施術後、鏡を見たトヨは悲鳴を上げた。自分が九十歳であることも、白髪の理由も分からない。隣に座る老人が夫の丹治だと聞くと、さらに眉をひそめた。

「私、こんな無口な人と結婚したの?」

「昔はもう少し喋った」

「それは残念。今からやり直しね」

丹治は毎朝、初対面のようにトヨへ挨拶した。二人が出会った喫茶店の話、貧しい新婚時代の話、子どもを失った冬の話はしなかった。トヨが消した六十年を、勝手に埋め戻したくなかったからだ。

代わりに散歩へ誘い、庭の梅を見せ、トヨが好きだった甘すぎる卵焼きを作った。トヨは何度も「趣味が合うわね」と笑った。丹治はそのたび、六十年前と同じ場所にえくぼができるのを見た。

一か月後、トヨは丹治へ手紙を渡した。

〈あなたといると、何かを思い出しそうになる。でも、思い出さなくても安心する。若いころの私は、あなたを好きになったのでしょうか〉

丹治は返事に迷った。事実を言えば簡単だった。しかし、それは昔のトヨの選択であって、今の彼女の選択ではない。

〈分かりません。もう一度、確かめてください〉

その日から丹治は、花を一輪ずつ贈った。トヨは三日目に「倹約家なのね」と笑い、十日目に「案外しつこいのね」と言い、二十一日目に手を握った。

春、二人は家族だけの小さな結婚式を挙げた。誓いの言葉の途中で、トヨは丹治の耳元へ囁いた。

「初恋って、もっと胸が騒ぐものだと思ってた」

「これは二度目だからな」

丹治が答えると、トヨは目を丸くし、それから声を立てて笑った。

六十年は戻らない。失った年月の中には、幸福だけでなく、耐えてきた痛みもあった。それでもトヨは、新しく覚えた丹治の手の温度を、その夜の日記に大きく書いた。

〈今日からのことは、消さない〉