九時までの王女

王女役の声優がスタジオを出られるのは午前九時。別の収録があるため、一分も延ばせない。夜通し続いた追加収録で、残った台詞は一つだけだった。

「あなたを、ずっと待っていました」

 音響監督は即座に合格を出した。だが編集担当の榛名迫環は、波形を見たまま再生を止めなかった。映像に当てると、王女の口が閉じた後も「ました」の息が続いている。

「尺を縮めればいい。後ろを切って」

 監督が時計を見る。残り十二分。環は末尾だけを切った音を聞かせた。言葉は収まるが、王女が「待っていました」と言い切る前に諦めたように聞こえる。

 映像の口の動きはもう直せない。台詞のリテイクも、同じ感情が出る保証はない。環は収録済みの別の場面から、王女が短く息を吸う音を探した。そして台詞の前へ置き、声の速度には触れず、最初の沈黙だけを詰めた。

 映像を流す。王女は主人公を見つけ、息をのみ、それから言う。

「あなたを、ずっと待っていました」

 最後の息が、口の閉じる瞬間に重なった。監督は頷いたが、環はまだ書き出さない。仮素材の映像には、最終版より二コマ長いという注意書きがあった。

「本番では、またはみ出すんじゃない?」

 制作助手が青ざめる。

「逆。二コマ短くなる。だから今ぴったりだと、本番では言葉が切れる」

 環は台詞の途中にある「ずっと」の母音を、聞き取れないほどわずかに縮めた。感情の頂点ではなく、音が伸びている場所を選ぶ。最終映像と同じ長さの枠を作って再生すると、王女の唇と声は最後まで離れなかった。

 書き出し前、環は台詞の前後に残った空調音も聞いた。別の台詞から息を移した境目で、部屋の響きが変われば継ぎ接ぎだと分かる。ヘッドホンを替えても、境目は聞こえなかった。

 午前八時五十八分、声優は台本を閉じた。

「もう一回、要りませんでした?」

「今の一回を残します」

 環が答えると、彼女はほっと笑ってスタジオを出た。

 廊下の時計が九時を打つ。環は完成音声を書き出し、次の収録表を開いた。午前十時からは、三百年間眠っていた魔王の叫び声だった。

 休憩欄は空白のままだった。