予約されていない料理本

 蟇目叶芽は、駅裏の古書店で働いている。

 毎週木曜の午後、灰色の帽子をかぶった男性が来て、料理棚の同じ場所を眺めた。

 そこには昭和の家庭料理本が一冊ある。表紙は油で変色し、頁の間に昔の買い物メモが挟まっていた。

「お取り置きしますか」

 叶芽が訊くと、男性は首を振った。

「見るだけでいいんです。妻が同じ本を使っていたから」

 妻を亡くして一年になるという。

 男性は毎週、肉じゃがの頁を開き、しばらくして棚へ戻した。

 ある日、その本を買おうとする客がいた。

 叶芽は反射的に言った。

「すみません、予約品なんです」

 予約はされていない。

 客は別の本を選び、叶芽は料理本の背へ小さな札を挟んだ。

 次の木曜、男性は札を見つけた。

「売れたんですね」

「予約されました」

「そうですか」

 声が少しだけ寂しそうだった。

 叶芽は本を棚から出し、紙袋へ入れた。

「長期予約で、受取人がなかなか来なくて」

「誰です?」

「灰色の帽子の方」

 男性は叶芽を見た。

「私は予約していません」

「店が勝手に受け付けました」

「代金は」

「いつか、この本の料理を一つ味見させてください」

 古書店として正しい取引ではない。

 それでも男性はしばらく本を抱え、最後に小さく笑った。

 二週間後、男性が瓶を一つ持ってきた。

 橙色のマーマレードだった。

「料理本に載っていたんですか」

「いいえ。妻の書き込みに、夏みかんを煮るとありました」

 蓋を開けると、苦く甘い柑橘の香りが店へ広がった。

「味見の約束は料理でした」

「パンに塗れば一皿です」

 叶芽は奥から食パンを出し、古いトースターで二枚焼いた。

 温かなパンへマーマレードを載せる。

 皮は少し厚く、甘さのあとに強い苦みが残った。

「妻のものとは違います」

 男性が言う。

「それでも、おいしいです」

「店員さんは嘘が上手ですね」

「予約品ですから」

 二人は顔を見合わせ、笑った。

 料理本は男性の家へ移ったが、木曜の午後には今も店へ来る。

 今度は自分で作ったものの話をし、新しい本を一冊ずつ眺める。

 棚の隙間には、あの予約札がまだ挟まっている。

 古い紙と焼いたパン、夏みかんの香りが混じる店内で、叶芽は札を抜かなかった。

 誰にも予約されていなかった一冊が、二人だけの小さな約束を取り置きしていた。