予約名は旧姓で

予約表に「藤代依央」と書かれているのを見て、依央は受付で訂正しかけた。

 離婚して半年、戸籍も免許証も藤代に戻っている。間違いではない。ただ、その姓で呼ぶ声が遼生だったことが問題だった。

「藤代さん、どうぞ」

 三年ぶりに見る元恋人は、鏡の中で少しだけ髪が短くなっていた。

「この店にいたんだ」

「先月から。予約名を見て、同姓同名かと思った」

 閉店まで四十分。最後の客は依央だけだった。椅子に座れば逃げられない。首にケープを巻かれ、鏡越しに目が合う。

「今日はどうします?」

「ただ切りに来ただけ」

「髪型を聞いてる」

「分かってる」

 遼生と別れたのは、結婚の話をされたからだった。二十六歳の依央には、彼との未来が具体的すぎて怖かった。なのに一年後、親の紹介で会った人と勢いで結婚した。考える時間を持たないほうが、決める責任から逃げられた。

 その結婚は一年で終わった。

「名字、戻ったんだね」

 鋏の音が一度止まる。

「うん」

「そう」

 慰めも皮肉もない声だった。それがかえって痛い。

「ただ切りに来ただけだから」

 二度目は牽制だった。離婚したから会いに来たのではない。遼生を予備の人生みたいに扱うつもりはない。そう伝えたいのに、言葉にすればするほど、その逆に聞こえそうだった。

「この店、来月で移転する」

「どこへ?」

「隣の県。今日がここでの最終営業」

 鏡の端に、片づけられたワゴンと積まれた箱が映る。依央は思わず振り返り、ケープを引っ張られた。

「危ない」

「聞いてない」

「連絡してないから」

 当然だった。別れたあと、依央が連絡先を全部消した。

 ドライヤーの温風が止まり、時計の秒針が急に大きくなる。あと五分。

「終わりました」

 遼生がケープを外す。肩に触れた指はすぐ離れた。

 受付で会計を済ませると、次回予約を尋ねられた。移転先までは電車で一時間半。通う理由としては遠すぎる。

「ただ切りに来ただけ」

 三度目を口にしかけて、依央はやめた。

「次、いつ空いてる?」

 遼生は予約端末を開いた。

「二か月後なら」

「そこに入れて」

「名前は?」

 からかっているのではない。確認のための質問だった。

 依央は一度息を吸った。

「藤代依央。今度は、その名前でちゃんと来る」

 告白の代わりに、移転先までの乗換案内を保存した。削除ボタンのすぐ隣にあった星印も、押した。