二人分になった住所
日曜の午後四時、灯里は段ボール箱の上で爪を切っていた。
引っ越して三週間。箱にはまだ〈本・冬服〉と書かれたままで、カーテンは前の部屋から持ってきたため、窓より十センチ短い。西日が床に細長く差し込んでいた。
環からメッセージが来た。
〈急なんだけど、結婚することになった〉
続けて、二人で住む新居へ来月移ること、式は小さくすること、それから招待状を送りたいので住所を教えてほしい、とあった。
灯里は爪切りを箱の上に置いた。
環は悪くない。むしろ、灯里が恋人と別れて部屋を出ると決めたとき、休日を一日使って物件探しにつき合ってくれた。だから最初に浮かんだ〈おめでとう〉に嘘はない。
ただ、住所を入力しようとすると指が止まった。
前の部屋では、表札に二人の名字を並べていた。結婚の予定はなかったが、宅配便が迷わないようにという理由で、透明な板へ小さく貼った。退去の日、それを剥がした跡だけが白く残った。
新しい部屋の郵便受けには、まだ何も貼っていない。どうせ長く住まないかもしれない、と言い訳していた。
環から〈落ち着いてからで大丈夫〉と追伸が来た。灯里は、自分が返事に困っていることまで見透かされたようで、少しだけ腹が立った。けれど、それも環のせいではなかった。
机代わりの段ボールから、賃貸契約書を取り出す。住所は覚えている。それでも、町名、番地、部屋番号を一文字ずつ確かめて打った。
〈おめでとう。招待状、ここに送って〉
送信した住所は、一人分の狭い部屋を示している。けれど仮の住所ではない。今の灯里が眠り、朝になれば出勤し、休日には爪を切る場所だ。
返事を待つ間、百円ショップで買った白いラベルを出した。油性ペンで名字を書く。字は少し右上がりになった。
郵便受けまで降りるのは面倒だったが、靴下のままサンダルを履いた。廊下の風は、部屋より冷たかった。
ラベルを貼ると、銀色の扉に自分の名字だけが残った。二人分になった環の住所を祝う日に、一人分の自分の住所も、ようやく住まいとして認めてやれた気がした。
部屋へ戻り、開けていない箱はそのままにした。今日は名前を一つ貼った。それで十分だった。