二人前のナポリタン
大宅琴葉が元恋人へ連絡したのは、フライパンを返すためだった。
別れて半年、赤い持ち手の鉄製フライパンだけが琴葉の部屋に残っていた。明日から入院すると決まった日の帰り道、それを見つけた。返却を先延ばしにしていた理由まで、今さら整理する気はなかった。
「取りに来られる?」
返信は十分後に届いた。仕事帰りに寄る、とだけあった。
琴葉はフライパンを洗い直した。底の黒ずみは落ちなかった。箱へ入れようとして、棚に半端なスパゲティを見つける。玉ねぎ半分、ピーマン一個、ウインナー三本。捨てるには、どれも少し多い。
元恋人が来たとき、部屋にはケチャップの甘い匂いがしていた。
「返す前に使った」
「見れば分かる」
琴葉は二人前を皿に分けた。粉チーズは一つしかないので、先に相手へ渡す。元恋人は振らずにそのまま返した。
入院のことは伝えてあった。病名も、治療が簡単ではないことも、メッセージの三行で済ませた。食卓では何も聞かれなかった。二人とも麺を巻き、時々ピーマンを皿の端から拾った。
相手が先に食べ終え、フライパンへ目をやった。
「これ、置いていけば」
「返すために呼んだの」
琴葉は自分の皿に残った一本を食べた。言い争いにはならなかった。相手は流しで二枚の皿を洗い、琴葉はフライパンの水気を拭いた。
紙袋の底に古いタオルを敷き、赤い持ち手を上にして入れる。元恋人が袋を持つと、黒い底が布越しに丸く浮いた。
玄関の扉が閉じたあと、琴葉は食卓へ戻った。ケチャップの輪が一つ残っていた。濡らした布巾で円の外側から拭き、最後に中心を押さえる。
流しの水切りかごには、洗われたフォークが二本並んでいた。琴葉は一本を元の引き出しへ戻し、もう一本は紙袋の隙間へ差した。相手が以前から自分のものだと言い張っていた、柄の曲がったフォークだった。玄関で紙袋が傾くと中で金属が鳴ったが、相手は取り出さなかった。琴葉も、返す物が一つ増えたことを説明しなかった。
赤い跡は、布巾の裏へきれいに移った。