二十五年遅れの合格通知

 父が施設へ移ることになり、兄妹は書斎を片づけた。

 机の二重底から、黄ばんだ封筒が出てきた。

〈音楽大学 合格通知〉

 宛名は妹。消印は二十五年前だった。

「私は落ちたって聞いた」

 妹の声が低くなった。

 兄は封筒を見た瞬間、椅子へ座った。

「俺が隠した」

 父は、家の印刷所を継ぐ兄と、病気の母を手伝う妹が必要だと言った。音楽へ進めば家族が壊れる、通知を見せるな、と兄へ命じた。

「命令されたから?」

「従った」

「私は、才能がなかったと思って生きた」

「分かってる」

「分かるわけない!」

 妹は地元で結婚し、子どもへピアノを教えてきた。幸せでなかったわけではない。だからこそ、奪われた道を単純に悲劇にもできなかった。

 兄も、家業を継いだ。印刷所は時代に合わず閉じた。父に従った二十五年が、正しかった証拠はどこにも残らなかった。

「お前が出ていったら、俺だけ残るのが怖かった」

 兄は言った。

「父さんのためじゃない。自分のためにも隠した」

 妹は平手を上げ、下ろした。

「殴ったら、あんたが罰を受けて終わる」

「許してくれとは言わない」

「言われても無理」

 その夜、妹は二十五年触れていなかった実家のピアノを開けた。指は昔の曲を途中まで覚えていたが、左手が何度も止まった。兄は廊下で聞き、部屋へは入らなかった。その距離だけは、今の二人に必要だった。

 合格通知を持って施設へ行った。

 父は二人を見ても、息子と娘だと分からなかった。封筒を差し出すと、若いころ印刷した紙の質を確かめるように指で撫でた。

「いい紙だ」

 それだけだった。

 帰り道、妹は市民ホールの募集ポスターを見つけた。

〈大人のための室内楽講座〉

「二十五年遅いかな」

 兄はすぐに「遅くない」と言いかけ、やめた。

「俺が決めることじゃない」

 妹は申込用紙を一枚取った。

「送り迎えだけ頼む」

「それならする」

 講座初日、兄は入口で待った。妹は振り返らなかった。

 確執は消えず、失った時間も戻らない。

 ただ次の選択だけは、父にも兄にも渡さず、妹自身の手へ戻った。