二枚目の手形

「今月だけだ。名前を貸してくれ」

義兄の波多野は、そう言って二枚目の手形を机へ置いた。

加賀見澄人は、古びた万年筆の金色のペン先を見つめた。父から継いだ印刷会社の応接室。雨に濡れた窓。壁時計は午後三時十五分。何もかも、会社が潰れた日の一週間前と同じだった。

前回、澄人は親族を見捨てられず、波多野の会社が振り出した手形の裏へ保証署名をした。額面は五千万円。波多野は翌朝失踪し、手形は不渡り。連鎖した支払いで印刷会社の口座は空になった。四十年続いた工場は競売にかけられ、最後の輪転機が止まる音を、澄人は今も耳の奥に残している。

その音の直後、なぜか彼はこの応接室へ戻った。

窓の向こうでは、父の代から働く職人が紙粉を払い、夕刊の版を待っている。保証欄へ一文字書けば、あの背中から仕事も誇りも奪う。その重さを、今の澄人だけは知っていた。

波多野が万年筆を押しつける。

「今月だけだ。身内だろ?」

同じ台詞。前の澄人は「分かった」と答えた。

今度は蓋を閉めた。

「身内だから、保証はしない」

「何を言ってる。うちが倒れたら、お前の会社の仕事も――」

「その手形、支払人へ確認していいか?」

波多野の喉が鳴る。

澄人は目の前で取引先へ電話した。相手は沈黙したあと、「その発注は三か月前に取り消した」と答えた。手形の原因になる取引自体が存在しない。さらに番号は、紛失届の出た用紙と一致した。

波多野が立ち上がるより早く、澄人は万年筆と手形を透明袋へ入れた。

「貸すのは名前じゃない。警察に出す証拠だ」

午後三時二十八分。前の人生では、紙問屋から与信停止の通知がファクスで届いた時刻だった。

複合機が動き出す。澄人は息を止めて排紙口を見た。

印字されていたのは、与信停止ではない。

《定期用紙三十トン、予定どおり出荷します》

工場長が応接室の扉から顔を出す。

「社長、夜勤の輪転機、回していいですか」

前回は二度と聞けなかった問いだった。

澄人は万年筆ではなく、始業表へボールペンで丸をつけた。

「もちろんだ。朝まで回そう」