代役のイントロ

披露宴開始まで十分。霧島伊吹は、誰もいない宴会場のピアノで古い旋律を確かめていた。

予定していた奏者が発熱し、花嫁の馬場園雪乃が学生時代のバンド仲間だった伊吹へ、急きょ代役が回ってきた。曲名を聞いた瞬間、断るべきだったと思った。二人で作った曲だった。客席には彼を知る旧友も多く、最初の四小節だけで誰のために書かれた曲か気づくだろう。それでも譜面台には、雪乃の字でテンポが指定されていた。

別れる一週間前、雪乃はデモ音源を送り、最後にこう吹き込んでいた。

〈いつか結婚式で弾いて〉

伊吹は、彼女がすでに別の未来を見ているのだと思った。返事をせず、翌週の話し合いでは「もう続けられない」と先に言った。

鍵盤へ指を置いたところで、新郎がタブレットを持ってきた。

「元の音源、これで合っていますか」

「俺が持ってるのと同じなら」

「たぶん違います。雪乃が、途中で切れたものを送ったと言っていたので」

再生すると、懐かしい呼吸音のあとに例の言葉が流れた。

〈いつか結婚式で弾いて〉

伊吹が知っている音源はそこで終わる。だが、今回は続きがあった。

〈隣にいるのが伊吹じゃなくても。この曲は、私が初めて自分を好きになれた日の曲だから〉

そのあと、雪乃は小さく笑っていた。

「これを送ったとき、もう別れるつもりだったのか」

入口に立っていた雪乃が答えた。

「あなたが東京へ行くのを止めたくなかった。ついていくと言えば、夢を諦める顔をすると思った」

「俺は、誰かと結婚する宣言だと思った」

「誰かは決まってなかったよ」

互いに相手の未来を尊重したつもりで、相手の選択肢を奪っていた。今日その誤解が解けても、雪乃の隣にはもう、彼女に選ばれた男がいる。

会場の照明が落ちる。雪乃は新郎の腕へ戻った。

伊吹はイントロを弾き始めた。途中で一度だけ、昔のデモにはなかった和音を加えた。雪乃が振り向き、気づいたように笑う。

最後の音を伸ばしきったあと、伊吹はスマートフォンから短く切れた古いデモ音源を削除した。