代役の声が先に泣く
代役の砂守弥生が歌い出す前に、イヤーモニターの中で誰かが泣いた。
一週間前、主演歌手の小杜アサが本番直前に失踪した。楽屋には衣装も端末も残り、譜面の余白に一行だけ書かれていた。
「代わりに歌って」
弥生は三年間、アサの仮歌を担当してきた。音域も癖も近いのに、表へ出るのはいつもアサだった。だから失踪後、事務所が彼女を代役に選んだとき、胸の奥で喜んだ自分を否定できなかった。アサのロッカーが空になった朝、悲しむより先に自分の衣装サイズを確認してしまったことも、誰にも言えなかった。
一夜限りの生放送。イントロは心電図のような電子音で始まった。Aメロへ入ると、弥生の声より半拍先に、アサの息が聞こえる。譜面にない吸気が、次の音を導くように配置されていた。
「代わりに歌って」
サビで弥生は限界まで声を張った。だが高音へ届く直前、伴奏が落ち、アサの生声だけが流れた。
〈私は自分から消えたんじゃない〉
舞台袖の制作責任者が停止を命じる。映像スクリーンには、失踪当夜の楽屋が映った。責任者がアサへ契約更新を迫り、拒まれると鎮静剤を注射する。倒れた彼女を搬入口から運び出すところで映像は途切れた。
弥生の足が震える。映像を撮ったのは、鏡の前に置かれた彼女の仮歌用端末だった。弥生はその夜、隣室で録音していた。物音に気づきながら、役を失うのが怖くて扉を開けなかった。
サビがもう一度来る。弥生のマイクだけが生きている。責任者が「予定どおり歌え」と耳元で怒鳴る。
弥生は歌詞を捨てた。
「私、聞いていました」
その一言が会場へ流れる。続けて、見た時刻、車の色、責任者の名前を話した。最後の一音は歌ではなく、震えながら吸い込んだ息になった。
スクリーンに、病院からの通知が出る。
〈身元不明患者の照合が完了しました〉
〈小杜アサ、生存〉
弥生の耳に、録音された三度目の言葉が届く。
「代わりに歌って」
舞台を奪ってほしいという遺言ではない。声を奪われた自分の代わりに、見て見ぬふりをした真実を歌ってほしいという依頼だった。