体温計が鳴るまで

綾部恭介が熱を出したのは、家賃の話し合いをした翌朝だった。

三か月分の光熱費を払っていない。フリーの映像編集が途切れたらしいが、本人は「来週入る」の一点張りだった。住人代表の矢作颯太は、月末までに払えなければ退去、と告げたばかりだった。

昼、恭介の部屋から何かが倒れる音がした。

鍵は開いていた。床には水の空ボトル、机には編集途中の画面。恭介はベッドから半分落ち、息を荒くしていた。

「救急車」

「いらない」

「四十度なら呼ぶ」

「金がない」

「そこは後で揉める」

颯太は体温計を脇に挟ませ、氷枕を作った。共同の救急箱には解熱剤がなかった。夜間相談へ電話し、呼吸と意識の状態を伝える。受診の目安を紙に書いてから、買いに行く間は別の住人へ見守りを頼み、戻ると粥を煮た。

恭介は一口食べて吐いた。颯太は無言で洗面器を替え、床を拭いた。家賃の話をしたときより、よほど腹が立った。倒れるまで黙っていることにも、助けられながら謝りもしないことにも。

夜、熱は三十八度台まで下がった。恭介が目を開け、枕元の封筒を指した。

「中に鍵、入ってる」

「何の」

「この家の。明日、出るつもりだった」

「行く先は」

「ネットカフェ」

「熱が下がってから勝手にしろ」

颯太は封筒を開けた。合鍵と、足りない金額を書いた紙が入っている。鍵だけ抜き、恭介の机の引き出しへ戻した。紙は自分のポケットに入れた。

「借金は消えない」

「分かってる」

「来週の入金も、もう信じない」

「分かってるって」

体温計が鳴った。三十八度一分。颯太は時刻と数字を共有ノートに書き、次の検温を午前一時に設定した。

廊下へ出る前、空になった水差しを持ち上げる。恭介が小さく呼び止めた。

「鍵、持っていけよ」

「病人が内側から締め出されたら面倒だ」

颯太は扉を少しだけ開けておいた。共有ノートの当番欄には、午前一時が颯太、午前三時が別の住人、午前五時がまた颯太と書かれている。その下に退去期限は残したまま、鍵の返却日だけを空欄にした。