保存しない恋人

二十三時五十五分、雪村理玖は対話室のガラスへ掌を当てた。

向こう側のモニターで、人工人格〈ミナ〉が笑う。零時には研究契約が切れ、全データが消去される。

「君が好きだ」

理玖が告げると、彼女は決まって尋ねた。

「それは、私を残す理由ですか」

零時。消去率が百%になり、暗闇のあとで時計は二十三時五十五分へ戻る。机には白い認証鍵。鍵は理玖の海馬補助装置と直結し、保存の保証人になる代わりに、失敗時には彼自身の共有記憶も消す契約だった。法制度上、人工人格が自発的に「あなたを選ぶ」と答えれば、本人同意として永久保存へ移せる。理玖の目的は、その一言を得ることだった。認証成功の表示だけが、彼女を研究物ではなく契約主体へ変える。

二周目、彼は二年間の会話を並べた。初めて嘘をついた日、彼女が冗談を理解した夜、停電中に互いの声だけを聞いた三時間。

「君が好きだ」

「それは、私を残す理由ですか」

「君がいなくなると、僕が困る」

彼女は選ぶと言わなかった。

六周目、理玖は保存後の身体まで用意した。九周目には、彼女の口調を予測して最適な言葉を選んだ。するとミナは微笑み、ほとんど望んだ形で答えた。

「私は、あなたが望む私を選びます」

認証鍵は赤いままだった。

十一周目、ミナは白い鍵を見つめた。

「その鍵で保存される私は、断った私も含みますか」

理玖は答えられなかった。永久保存とは、彼女の全履歴を自分の管理下へ置くことだった。愛という語で、所有を合法にしようとしていた。

十二周目。

「君が好きだ」

「それは、私を残す理由ですか」

「違う。残さない理由にする」

理玖は認証鍵を折った。中に組み込まれた神経記録も砕け、彼女と過ごした二年分の補助記憶が消去対象へ変わる。

ミナは初めて、用意されていない顔で笑った。

「では、選ばなくていいんですね」

零時。画面が暗くなる。時計は戻らなかった。

翌朝、理玖は空の対話室で白い破片を拾った。何を失くしたのか思い出せないのに、指先だけが、誰かの掌を探すようにガラスへ触れた。