傘掛けに残る雨
婚約を解消した翌週、私は役所へ書類を出しに故郷へ戻った。駅から実家へ向かう途中、古いバス停の屋根が新しくなっているのを見つけた。柱の横には、昔と同じ傘掛けだけが残っている。錆びた金具に指をかけると、雨の匂いがよみがえった。
高校二年の梅雨、私は校門で振られた。傘を持っていたのに開けず、制服の肩を濡らして歩いた。泣いていると知られたくなかったのだ。バス停まで来ると、那智が透明傘を一本差し出した。
「濡れて帰ったら、泣いたのばれるよ」
「もうばれてるじゃん」
「私以外には、ばれなくていい」
那智は自分の傘を傘掛けへ残し、私の傘へ無理やり入ってきた。肩がぶつかり、二人とも半分ずつ濡れた。私はその夜、失恋したことより、誰かの前で泣けたことに救われた。
卒業後、那智とは別の町で暮らし、いつしか年に一度の誕生日だけを送り合う仲になった。透明傘のことを話したことはない。それでも雨の日になると、彼女の「私以外には」という声だけが鮮明に戻る。
今の私は、婚約をやめた理由を誰にも説明できずにいる。好きではなくなったわけではない。ただ、相手の望む暮らしへ自分を折り畳み続けるうち、何が悲しいのかさえ分からなくなった。
ぽつりと雨が落ちた。傘は鞄の中にある。道路の向こうで、制服姿の女の子が空を見上げ、走り出そうとしていた。私はコンビニで買ったばかりの透明傘を傘掛けにかけ、「使って」と声をかける。彼女は驚き、それから深く頭を下げた。
私は自分の紺色の傘を開いた。一人で入れば、肩は濡れない。けれど、それは一人になった罰ではなく、自分の幅を取り戻しただけなのだと思う。
透明傘を受け取った女の子は、数歩先で友達らしい子を中へ招いた。小さな傘の下で二人の鞄がぶつかり、昔の私たちと同じように笑っている。
バス停を離れる前、那智へ「久しぶりに会って、泣いてもいい?」と送った。返事を待たずに歩き出す。傘を打つ雨音は、終わった約束を責める音ではなく、これから話すための合図に聞こえた。