傷のあるサビ
千種奈央は、ポートフォリオの十一枚目をまた開いた。
人物の左手が、ほんの少し大きい。面接担当者は気づかないかもしれない。けれど奈央は気づいている。直せば背景との比率が崩れ、背景を直せば締切に間に合わない。応募を一週間延ばす理由としては十分だった。前回は人物の耳を直しているうちに締切を越えた。前々回は配色を選び直して、応募そのものを見送った。落選歴はない。その代わり、応募歴もほとんどなかった。
逃げ込んだ「音叉堂」で、黄ばんだジャケットのLPが目に留まった。女性歌手が雨の歩道に立っている。盤面には、見ただけで分かる傷が一本、サビのあたりを横切っていた。
「これは、飛びますよね」
店主は答えず、クリーナーを一滴垂らした。柔らかな布で円を描かず、溝に沿って一方向に拭く。傷そのものには何もしなかった。
試聴すると、二曲目のサビで針が一度戻った。
《まだ、まだ、まだ》
同じ言葉が三回繰り返される。
奈央が苦笑すると、店主は針圧をほんの少し上げた。もう一度。今度は小さな雑音を立てながら、針が傷を越えた。歌手の声は一瞬だけ掠れ、その先の高音へ届く。
「修復できたんですか」
「傷は残っています。再生条件を合わせただけです」
会計で店主は、値札の横に赤いゴム印を押した。
〈二曲目ノイズあり・再生可〉
欠点を隠さず、商品として店に置くための言葉だった。誰かが買わない理由にもなり、買うと決めるための情報にもなる。傷は、存在を取り消す判決ではなかった。
奈央はLPを抱えたまま、店の隅のベンチでノートパソコンを開いた。十一枚目の左手は、やはり少し大きい。だからといって、十枚目までの仕事が消えるわけではない。
修正ソフトを閉じる。
応募フォームにファイルを添付する。
備考欄へ、制作期間と使用ソフトだけを書く。言い訳は書かない。
送信直前、店主が包装用のテープを切る音がした。短く、迷いのない音だった。
奈央はクリックした。
画面に〈応募を受け付けました〉と表示される。左手はまだ大きいまま、十一枚目の絵は、傷の向こうへ進んでいった。