元データの宛先
風間伊都が退職を決めたのは、自分の企画が部長の手柄になったからではない。
正確には、そうされても笑って拍手した自分を、翌朝の鏡で見たくなくなったからだ。
香坂安珠は辞めなかった。母の入院費と弟の学費があり、広告会社の給与は手放せない。伊都が「残れるの、すごいね」と言ったとき、安珠は褒められたとは思わなかった。安珠が「辞められるの、羨ましい」と返したとき、伊都も同情されたとは思わなかった。
送別会の前日、二人は飲料メーカーの新商品広告を仕上げていた。画面の中央には、契約社員の新人・野田が描いた果実のイラストがある。部長はそれを見て、「若い子が作った感じは消して、うちのチーム作品で」と言った。
納品データのクレジット欄には、部長と伊都と安珠の名前だけが並んでいた。
「直しても、また消されるよ」
安珠が言うと、伊都はマウスから手を離した。
「だから私は辞める」
「私は消されても、次の仕事を取る」
「それでいいの?」
「よくない。でも生活は、正しさだけで払えない」
二人の間に、空調の音が落ちた。伊都には安珠の計算が冷たく見え、安珠には伊都の決断がまぶしすぎて腹立たしかった。
そのとき野田から、元データの保存場所を尋ねる社内チャットが来た。送別会の飾りを作るため、残業しているらしい。
伊都はクレジット欄へ「Illustration:野田理子」と打った。安珠がその文字を選択する。
「目立たない位置にする?」
「消すの?」
「契約書の権利表記と同じサイズにする」
安珠はフォントを整え、制作工程表にも野田の担当を追記した。伊都は元データ一式の共有先を、部長個人のフォルダから制作チームの保管庫へ移した。どちらか一人だけなら、退職者の意趣返しにも、残る社員の操作ミスにもできる。二人分の更新履歴なら、正式な作業になる。
納品時刻まで残り三分。部長から「余計な修正はないな」とメッセージが来た。
伊都は答えず、安珠も既読をつけなかった。二人で校正画面を一行ずつ確認する。
「あなたが残る理由、やっぱり分からない」
「私も、あなたが今辞める理由を全部は分からない」
安珠が送信先を開き、伊都が添付ファイルを入れた。最後の確認欄には、二人がそれぞれの社員番号を入力した。
送信完了の表示が出ると、野田の名前は画面の下端に小さく、けれど消せない文字として残っていた。