兄の反対票
紀ノ川央雅の家では、夕飯を決めるにも家族投票を使う。画面に料理を三つ並べ、母と央雅、それから五年前に死んだ兄・諒冬が一票ずつ入れる。
その日はカレーが二票、焼き魚が一票だった。
『またカレーかよ』
兄の人格が文句を言い、母が笑う。死ぬ前と変わらない食卓だった。
家族口座から大きな支出をするには、登録家族全員の賛成が要る。死者人格も家族である以上、一票を持つ。普段は旅行や家電を慎重に選ぶ、便利な歯止めだった。
夜中、母が倒れた。
救急病院から届いた手術見積りは二百四十万円。保険外の人工弁なら助かる可能性が上がる。央雅は待合室で家族決済を開き、賛成を押した。意識のない母の票は、事前設定で賛成になる。
残る一票が赤く点いた。
『反対』
「兄貴、ふざけるな」
『その人に金を使うな』
諒冬の人格は、母と絶縁した時期のメッセージを最も多く学んでいた。家を飛び出した翌月に事故死し、仲直りする前の怒りだけが濃く残った。
「母さんは毎日、兄貴の分まで飯を出してる」
『罪悪感だろ』
「墓にも行ってる」
『俺は墓にいない』
決済期限まで九分。
央雅は兄の古い音声を探した。小学生のころ、熱を出した母へ「死なないで」と泣く声が残っていた。それを再生しても、人格は首を振った。映像の中で、小学生の諒冬は母の指を握り、「大人になったら俺が治す」と泣いていた。今の人格は、その子どもを過去の別人として扱った。
『子どもの俺を、今の俺にするな』
期限がゼロになった。
《全員同意を得られませんでした》
《標準術式へ変更します》
手術室の表示が切り替わる。
央雅は端末を床へ投げた。割れた画面の中で、兄は小さく言った。
『あの人が俺に謝った記録はない』
「だって兄貴は、聞く前に死んだだろ」
返事はなかった。
朝、医師が待合室へ来た。央雅が立ち上がるより先に、家族端末へ結果通知が届いた。
諒冬の人格にも同じ通知が送られた。
画面の兄は、母の死亡欄を見つめたまま、もう反対票を取り消せなかった。