兄貴は冷蔵庫の上段
割烹料理店へ入ったばかりの宿毛玖美は、料理長の低い声に包丁を落としかけた。
「玖美、兄貴から使え。弟にはまだ手を出すな」
玖美には二人の兄がいる。どちらも近所に住んでいる。
「なぜ、うちの兄を?」
「うちの兄貴だ。昨日から待ってる」
料理長は冷蔵庫をあごで示した。
兄が冷蔵庫にいる。玖美の顔から血の気が引いた。
「生きていますか」
「今朝見たときは、まだいけた」
「まだ、って」
「臭いが出る前に使い切れ。弟は明日でもいい」
料理長は恐ろしいほど事務的だった。
玖美は兄へ電話した。
『もしもし?』
「兄ちゃん、生きてる?」
『寝起きだけど』
一人は無事。もう一人へかけても、元気にラーメンを食べていた。
では冷蔵庫の兄貴は誰なのか。
先輩板前へ小声で尋ねた。
「料理長は、いつからああいうことを?」
「昔からだよ。兄貴を先にするのが基本だ」
「皆さん止めないんですか」
「弟から使うと順番が崩れるだろ」
組織ぐるみである。
さらに奥から料理長の声が飛んだ。
「兄貴、腹が緩いぞ。締め直しておけ」
「腹まで!」
「頭も落とす。骨は取っておけ」
玖美はスマートフォンで通報画面を開いた。だが店の常連刑事がカウンター越しに平然と酒を飲んでいる。彼まで黙認しているなら、事態は想像以上に深い。
玖美は覚悟を決め、冷蔵庫を少しだけ開けた。氷の上に銀色の尾が見え、悲鳴を飲み込む。人間の足ではない。それでも「兄貴」と呼ばれる何かが横たわっている。
そのとき料理長が、冷蔵庫から鯛を二尾出した。
「こっちが兄貴、こっちが弟。見分けられるか?」
玖美は震えながら首を振った。
「兄貴は昨日仕入れた古いほう。弟は今日来た新しいほうだ。厨房じゃ、先に入った食材を兄貴、後から来たものを弟って呼ぶことがある」
「人間ではない?」
「人間を冷蔵庫に入れる店に見えるか」
玖美は店内を見回した。無口な板前たちが一斉に目をそらしたので、あまり安心できなかった。
料理長は鯛を差し出した。
「ほら、兄貴をおろせ」
玖美はまた包丁を落とした。
「言い方!」