六十三度の牛乳
公爵領の乳屋は、朝搾った牛乳の半分を夕方には捨てていた。
「異世界人に牛の何が分かる」
店主マルクスは、杏奈へ空桶を押しつけた。乳は昼を越すと酸っぱい匂いを放ち、飲んだ子どもが腹を壊す。冷却魔石は高価で、町の小店には一つも買えない。
杏奈が知っていたのは、低温で一定時間温める方法だけだった。
鍋に牛乳を入れ、温度を見る細い硝子棒を差す。沸騰はさせない。六十三度を保ち、砂時計を三十分。終われば蓋をして井戸水で冷やす。
「煮もしない半端な火で、薪を食うだけだ」
杏奈は火を強めようとする職人の手を止めた。高くしすぎれば膜が張り、味が変わる。低ければ意味がない。三十分の間、温度棒の線から目を離さず、薪を一本ずつ足した。店の者には退屈に見えたが、捨てる乳を減らすための時間だった。鍋肌の甘い湯気だけが、静かに店を満たした。
マルクスは吐き捨てたが、杏奈は昨日と同じ牧場の乳を二つに分けた。一方は従来どおり。もう一方だけを温めた。味付けも魔法もなしだ。二つの壺には同じ印を刻み、店主自身に置き場所を決めさせた。入れ替えたという言い逃れもできない。
夕方、従来の壺は蓋を開けた瞬間に酸臭が立った。温めた壺は、朝の甘い香りを残していた。店主が恐る恐る舐める。舌に刺す酸味はない。
翌朝も差は消えなかった。従来の壺は固まり始め、杏奈の壺は白いまま流れた。二日目、孤児院の子ども二十人へ売ったが、腹痛の知らせはゼロ。廃棄桶に捨てた量は、いつもの四十二杯から三杯に減った。
噂を聞いた菓子職人が店先へ並んだ。
「明日も二壺」
「うちは五壺だ」
「王都行きの馬車へ十壺積めるか?」
マルクスは注文札を数え、途中で指が足りなくなった。捨てるはずだった乳が、すでに三日分売れている。
杏奈は温度棒を布で拭き、次の鍋へ差し込んだ。
店主は彼女から空桶を取り上げ、代わりに店の金庫鍵を置いた。
「搾乳係ではない。製乳工房を一つ、お前に任せる。六十三度の乳を、この領地全部へ売ってくれ」
店の外では、まだ開けていない予約札が風に鳴っていた。