共有しない鍵
顧客管理システムの切り替えまで三十分、榎本沙良の社内チャットに役員から一行だけ届いた。
〈管理者パスワードをここに貼って。外部コンサルが設定する〉
全支店の顧客名、住所、契約金額を見られる権限だった。役員は会議室から急かし、沙良の上司も「今日だけだから」と頷いた。
「役員指示なら、記録に残っているし大丈夫ですよね」
隣の後輩は、共有用のメモ帳を開いた。切り替えが遅れれば、明朝の営業開始に間に合わない。
沙良は外部コンサルのメールアドレスを管理画面へ入れ、手を止めた。同じ会社の古いアカウントが、まだ有効になっている。担当者は半年前に契約を終えた人で、昨夜もログインを試みた記録があった。
「貼らないで。パスワードは、指示した人の責任まで共有してくれないから」
沙良は旧アカウントを停止し、新しい担当者へ作業対象の設定画面だけを開ける一時間限定の権限を作った。閲覧できる顧客情報は架空データに置き換え、操作はすべて記録されるようにした。
作業開始から五分後、外部コンサルの端末が顧客一覧の書き出しを試み、権限不足で止まった。担当者は「設定確認のため」と説明したが、今回の作業に一覧の取得は必要ない。もし共有パスワードを渡していれば、誰が何を持ち出したかも分からなかった。後輩は開いたままのメモ帳を、何も書かずに閉じた。
役員から電話が来た。
「そんな面倒なことをしている時間はない。私が責任を取ると言っている」
「責任を取る前に、事故を起こさない設定にします」
声は震えたが、手順は変えなかった。外部コンサルは限定権限で必要な設定を終え、切り替えは予定の三分前に完了した。
沙良は後輩へ、管理者権限を渡す代わりに作業単位で権限を作る手順を画面録画した。続けて、旧アカウントが残っていたことと、役員から共有を求められた経緯を監査窓口へ送った。
午前零時、システムは正常表示へ変わった。画面の隅には、以前から届いていた情報セキュリティ室への異動打診が残っている。
沙良は承諾ボタンを押し、最後に管理者パスワードを変更した。